金城次郎の家系図は子3人が全員陶芸家!孫まで続く壺屋焼の血筋

金城次郎の家系図は子3人が全員陶芸家!孫まで続く壺屋焼の血筋

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金城次郎さんの家系図を調べようとすると、まず「金城一門」という言葉にぶつかりませんか。

でもあれは血縁だけの話ではないんです。実際の金城家は、子ども3人が全員陶芸家、そのうえ長女の夫が次郎さんの一番弟子という、血縁と師弟がぴったり重なった一族なんですよね。

この記事では、妻の屋比久カメさんから子・孫の世代まで、金城次郎さんの血のつながりだけを取り出して整理していきます。

この記事を読むとわかること
・妻・屋比久カメと、長男・長女・次男それぞれの名前と生年
・孫の金城吉彦・宮城三成・藤岡香奈子が継いだ窯と工房
・血縁の家系図と「金城一門」が指す範囲の違い

金城次郎の家系図|壺屋焼を継いだ血縁三代

金城次郎の家系図は、子ども3人が全員陶芸家、さらに孫の代も複数が窯を持つという、かなり濃い形をしています。

ここでは妻から子、孫までの血縁を軸に、判明している続柄を順番に整理していきますね。

沖縄県初の人間国宝となった陶工

まず本人の輪郭から押さえておきます。

金城次郎さんは1912年(大正元年)12月3日、那覇市与儀の生まれです。

1924年に新垣栄徳さんの製陶所へ見習工として入り、翌年から13歳の陶工として本格的に働き始めました。

この修業時代に、民藝運動の濱田庄司さんと出会っています。

のちには河井寛次郎さんからも指導を受けました。

1946年1月に那覇市壺屋で独立し、1972年10月には読谷村座喜味へ移って新しい窯を開いています。

この1972年というのは沖縄の本土復帰と同じ年で、壺屋の煙害問題を背景に、多くの陶工が読谷へ移った時期にあたります。

そして1985年、「琉球陶器」の重要無形文化財保持者に認定されました。

沖縄県で初めての人間国宝です。

2004年12月24日、心筋梗塞のため92歳で亡くなりました。

出来事
1912年 那覇市与儀に生まれる
1924年 新垣栄徳の製陶所に入る
1946年 那覇市壺屋で独立
1972年 読谷村座喜味へ移窯
1985年 沖縄県初の人間国宝に認定
2004年 92歳で死去

妻は屋比久カメ、1936年に結婚

家系図の起点になるのが、この結婚です。

大阪日本民芸館の略年譜によると、1936年10月に屋比久カメさんと結婚し、同じ年に長男の敏男さんが生まれています

そこから子どもの誕生を並べると、次のようになります。

続柄 名前 生年
長男 金城敏男 1936年
長女 宮城須美子 1937年
次男 金城敏昭 1943年

長男と長女が続けて生まれ、次男は少し離れて1943年。

その間の1940年には熊本輜重隊に召集されており、沖縄戦を挟んで1946年にようやく壺屋で独立しています。

戦争を挟んで家族と仕事を立て直したところから、金城家の系譜は本格的に始まっているんですね。

妻のカメさんについては、それ以上の情報はほとんど公開されていません。

ただ、3人の子どもが全員陶芸の道に進んだことを考えると、家そのものが工房と一体だったのだろうと想像できます。

長男・金城敏男は伝統工芸士

家系図の中心線にいるのが長男の金城敏男さんです。

1936年(昭和11年)、那覇市壺屋で人間国宝の長男として生まれました。

肩書は伝統工芸士。

父の仕事を間近で見ながら育ち、そのまま陶工の道に入っています。

金城次郎窯を父から受け継いだのが、この敏男さんということになりますね。

作風としては父の魚紋の系譜を引き継ぎつつ、自身の器を作り続けてきました。

長男が家業を継ぎ、その息子がまた継ぐ——という、いわゆる直系継承がはっきり成立している家です。

次男・金城敏昭も陶芸の道へ

次男の金城敏昭さんは1943年生まれ。

Wikipediaにも、次男として陶芸家であることが記されています。

長男と同じく陶工の道に進み、金城家の器を作り続けてきた人です。

ただ、敏昭さんについては公開されている資料が少なく、詳しい経歴や工房の情報はあまり出てきませんでした。

兄弟のうち窯の名前として表に出ているのは長男の系統で、次男の系統は情報が追いにくいという状況ですね。

これは陶芸に限らず、家業を継ぐ兄弟によく起きることでもあります。

長女・宮城須美子と夫の宮城智

家系図でとても面白いのが、長女の系統です。

1937年生まれの長女・須美子さんは、結婚して宮城姓になりました。

そして夫の宮城智さんは、金城次郎さんの一番弟子だった人物です。

つまり師匠の娘と一番弟子が結婚したという形ですね。

……これ、家系図としても工房の系譜としても、いちばん強い結び付き方じゃないでしょうか。

須美子さん自身も陶芸家で、「宮陶房」を営んできました。

智さんは1991年に亡くなっています。

その後、須美子さんは息子とともに作陶を続けました。

血縁と師弟が重なった系統が、この宮城家の側から伸びていくことになります。

孫の金城吉彦が金城次郎窯の三代目

孫の世代を見ていきます。

まず金城次郎窯を継いだのが金城吉彦さんです。

1967年(昭和42年)、金城敏男さんの長男として那覇市壺屋に生まれた伝統工芸士で、金城次郎窯の三代目にあたります。

金城次郎さん、金城敏男さん、金城吉彦さん。

祖父・父・子と三代がまっすぐつながっている系統です。

なお、吉彦さんの続柄については「敏男さんの長男」とする窯元側の紹介と、「三男」と書いているまとめ記事があり、実は表記が割れています。

ここでは窯元の紹介文にある「長男」を採りましたが、断定はできない部分として覚えておいてください。

孫の宮城三成は読谷で独立

長女・須美子さんの系統からも陶芸家が出ています。

宮城三成さんは1968年生まれ。

父は一番弟子だった宮城智さん、母は長女の須美子さん、そして祖父が金城次郎さんという血筋です。

1985年から父のもとで陶芸を学び始めましたが、1991年に父が亡くなったあとは、母と2人で作陶を続けることになりました。

若くして父を失って、母と工房を回していく。

……なかなか重い出発点ですよね。

そして1997年、読谷村字大湾で独立します。

2008年には工房を読谷村字座喜味へ移しました。

座喜味といえば、祖父の金城次郎さんが1972年に窯を移した場所です。

祖父が新しい窯を開いた土地に、孫がまた工房を構えたことになります。

現在は娘2人・息子1人がいると記されており、四代目にあたる世代もいるということですね。

孫の藤岡香奈子はやちむんの里に工房

もう一人、須美子さんの系統から孫が出ています。

陶芸家の藤岡香奈子さんです。

沖縄タイムスの記事によると、藤岡さんは母・須美子さんの「宮陶房」で修業を積み、読谷村座喜味の「やちむんの里」に「陶芸工房 ふじ」を開きました

記事は2014年のもので、当時53歳と紹介されています。

開業年については2015年とする記述もあり、そこは資料によって差があります。

紙面では「スタートラインに立ち、身の引き締まる思い。支えてくれている人たちに感謝しながら励みたい」とコメントしていました。

50代でのスタートというのが、なんというか、いいですよね。

家系としては、長女・須美子さんの子どもたちがそろって読谷で工房を持ったという形になります。

弟・金城敏雄の系統にも陶工が多い

家系図を横に広げると、弟の系統が出てきます。

金城次郎さんには金城敏雄さんという弟がいました。

「金城一門アーカイブ」の説明によると、敏雄さんは卓越した技術者だったと言われる一方、若くしてこの世を去った人物とされています。

そして、この敏雄さんの血筋からも壺屋焼の陶工が多く出ています。

Wikipediaにも、子ども3人が全員陶芸家であることに加えて、弟・敏雄の血筋を含めて一族に壺屋焼陶芸家が多いと記されています。

つまり金城家は、次郎さんの直系だけでなく、弟の家からも横に枝が伸びている一族だということですね。

金城次郎の家系図を調べる人向けの関連情報

家系図を追っていくと、必ずぶつかるのが「金城一門」という呼び名です。

ここからは、その意味と、作品の価格や真贋といった周辺の話をまとめて見ていきます。

金城一門は誰を指すのか

検索すると「金城一門」という言葉が大量に出てきます。

壺屋焼の系譜図や一門紹介のページが上位に並ぶので、これが家系図そのものだと思ってしまいがちなんですよね。

でも実際には少し違います。

金城一門は、人間国宝の金城次郎を代表とする壺屋焼の陶工グループを指す呼び名です。

金城一門アーカイブの説明を見ると、弟・金城敏雄さんの系図と、その技を受け継ぐ各陶工を紹介する、という構成になっています。

つまり血縁だけでなく、技術を継いだ陶工までを含めた広い枠なんですよ。

一方でこの記事で見てきたのは、次郎さん本人を起点にした血のつながり。

呼び方 指す範囲
金城次郎の家系図 妻・子・孫という血縁の系譜
金城一門 血縁に加えて技を受け継いだ陶工まで含む

「一門」の系譜図を見て家族関係だと読むと、続柄がずれてしまうので、そこは分けて考えてください。

もっとも、金城家の場合は師弟と血縁が重なっているケースが多いのが、ややこしさの原因でもあります。

長女の夫が一番弟子だった、というのがまさにその典型ですよね。

作品の価格はどれくらいか

「金城次郎作品 価格」もよく調べられているワードです。

オークションの相場データを見ると、直近90日の落札件数は293件で、平均落札価格は約13,000円となっています。

買取業者のサイトによれば、状態がよければおおむね1万円以上、大型作品や展覧会出展作なら10万円以上の値がつくこともあるとのこと。

高いものでは15万〜25万円程度になる場合もあるとされています。

具体的な例としては、「人間国宝 金城次郎 魚文茶碗 共箱」が57件の入札を集めて34,500円で落札されたという記録がありました。

ただし、これらはあくまで一般的な目安です。

作品の種類・状態・付属品によって大きく変わるので、実際の価値を知りたい場合は複数の業者に査定を依頼するのが確実だと思います。

偽物とサインが話題になる理由

価格の話とセットで出てくるのが「偽物」「サイン」というワードです。

人間国宝の作品はどうしても市場価値が高くなるので、真贋の話が避けられません。

買取業者の説明では、公的な鑑定機関が発行した鑑定書があるかどうかが、価格を大きく左右するとされています。

共箱(作者の署名が入った専用の箱)が揃っているかどうかも見られるポイントですね。

ここは金額に関わる話なので、断定的な見分け方を素人判断で当てはめるのは避けたほうが安全です。

気になる作品がある場合は、専門の鑑定機関や信頼できる取扱店に相談するのが確実だと思います。

魚紋とシーサーが代表作になった背景

最後に作風の話も少しだけ。

金城次郎さんの器といえば、なんといっても魚紋です。

線彫りで描かれた魚と海老の文様が、壺や食器、酒器といった実用品にのびのびと踊っている。

1957年には「魚紋大皿」と「抱瓶」がルーマニア国立民芸美術館に永久保存されました

シーサーもまた壺屋焼を代表する題材で、金城次郎さんの手によるものが知られています。

濱田庄司さんや河井寛次郎さんという民藝運動の中心人物から学んだこともあって、作品はあくまで「使うための器」が軸になっているんですよね。

その姿勢が、子や孫の代にもそのまま受け継がれています。

家系図をたどるということは、この魚紋がどう伝わってきたかをたどることでもあるのだと思います。

金城次郎の家系図のまとめ

  • 金城次郎は1912年12月3日、那覇市与儀の生まれ
  • 1924年に新垣栄徳の製陶所に入り、13歳から陶工として働き始めた
  • 濱田庄司・河井寛次郎の指導を受け、壺屋焼の保存と発展に努めた
  • 1985年に沖縄県初の人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された
  • 2004年12月24日に92歳で死去
  • 妻は屋比久カメで、1936年10月に結婚した
  • 長男は1936年生まれの金城敏男で伝統工芸士
  • 長女は1937年生まれの宮城須美子で「宮陶房」を営んだ
  • 次男は1943年生まれの金城敏昭で、こちらも陶芸家
  • 子どもは3人とも陶芸家という一家
  • 長女の夫・宮城智は金城次郎の一番弟子だった
  • 孫の金城吉彦が金城次郎窯の三代目を継いでいる
  • 孫の宮城三成は1997年に独立し、2008年に読谷村座喜味へ工房を移した
  • 孫の藤岡香奈子は読谷のやちむんの里に「陶芸工房 ふじ」を開いた
  • 弟・金城敏雄の血筋を含めた陶工の広がりが「金城一門」と呼ばれる

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