時代劇のエンドロールで「特技 宍戸大全」というクレジットを見たことがある方は多いと思います。
でも、その宍戸大全さんが今どうしているのかは、ほとんど知られていないんですよね。
調べてみると2012年春にすでに引退していて、しかも受け継がれたものがちゃんと残っていました。
・宍戸大全が引退した時期と、現在の年齢や存命に関する状況
・アクションチームを引き継いだ一番弟子と、継承がいつ始まっていたか
・近況が伝わってこないのに検索され続けている理由
宍戸大全の現在は2012年春に引退後
時代劇のエンドクレジットで「特技 宍戸大全」の6文字を見たことがある方は多いはずです。
ここでは、その宍戸大全さんが今どうしているのか、引退の時期から年齢、後を継いだ人、そして近年ふたたび名前が出ている理由までを順に整理していきますね。
引退は2012年春で活動期間は56年
まず、いちばん知りたいところからいきます。
宍戸大全さんは2012年春に引退しており、それ以降は制作現場から離れています。
プロフィール上の活動期間は1956年から2012年までと記載されています。
単純に数えると56年間です。
スタントという、体そのものが道具になる仕事で半世紀以上というのは、正直ちょっと想像が追いつきません。
しかも始まりは1956年、大映京都撮影所での吹き替え出演でした。
終わりが2012年ですから、日本の映画がまだ全盛期だった時代から、テレビ時代劇がほぼ姿を消す直前まで、ずっと現場にいたことになります。
区切りとして分かりやすいのは、長く関わってきた『水戸黄門』のレギュラー放送が2011年12月で終了していることです。
その翌年の春に引退という流れなので、時代劇そのものの節目と重なっているように見えますよね。
ただ、この2つを結びつける説明は公表されていないので、あくまで時期が近いという事実として受け取っておくのが安全かなと思います。
1956年から2012年までの主な歩み
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 1948年 | (旧制)福島県立保原中学校を卒業 |
| 1956年 | 大映京都撮影所『鼠小僧忍び込み控』に臨時出演し大映入社 |
| 1961年 | 東映京都撮影所へ移籍 |
| 1962年頃 | 忍者ブームでスタンド・インの代表格に |
| 1970年 | フリーとなり「特技」スタッフとして活動 |
| 1973年4月 | 千葉真一のJACと業務提携 |
| 1990年 | 肥前夢街道の「はがくれ忍者屋敷」を総合プロデュース |
| 2012年春 | 引退 |
年齢は96歳で訃報は確認できず
「まだご存命なの?」という疑問も、このキーワードで検索する方の多くが持っているものだと思います。
生年月日は1929年11月24日です。
2026年9月の時点では96歳ということになります。
そして調べた範囲では、訃報や死去を報じた記事は見当たりませんでした。
Wikipediaの記事も「存命人物」のカテゴリに入ったままです。
つまり、2026年9月時点で死去を伝える報道は確認できず、96歳という年齢で記載が続いている状態です。
ここで一つだけ気をつけたいのは、著名人であっても引退後は訃報が大きく扱われないことがある、という点です。
ご本人は俳優としてより裏方の「特技」として知られた方なので、仮に何かがあっても、必ずしも芸能ニュースの見出しになるとは限りません。
なので「報道が出ていない」は「間違いなくお元気」と同じ意味ではない、というくらいの温度感で読んでいただけたらと思います。
引退後の表舞台での活動は見当たらない
引退から10年以上が経ちましたが、その後の活動を伝える情報は出てきていません。
映画情報サイトの人物ページにも、新作や関連ニュースの掲載はない状態です。
テレビ出演やイベント登壇といった、いわゆる近況の露出も確認できませんでした。
現在は表舞台での活動が確認できず、公の場に出る形での近況は伝わっていない、というのが実態です。
ここ、少し補足させてください。
宍戸さんはもともと、顔を出す仕事ではありませんでした。
TBSの『水戸黄門』公式サイトに残っている紹介文にも、スタントを担当するメンバーについて「テレビに顔(は出ない)」という趣旨の記述があります。
そもそも出演者としてカメラの前に立つことが役割ではなかった方なので、引退後に姿が見えなくなるのは、ある意味で自然な流れでもあるんですよね。
アクションチームは森山陽介が継承
引退後に何も残っていないかというと、そんなことはありません。
宍戸大全アクションチームは、一番弟子の森山陽介さんが後を継いで活動しています。
つまり、ご本人が現場を離れたあとも、技術と看板は受け継がれているわけです。
東映京都撮影所のスタントチームの系譜としても、宍戸大全グループから森山グループへという流れが記録として残っています。
……これ、なかなかいい話だと思いませんか。
危険な仕事ほど、個人の身体能力に依存しがちです。
それを「チーム」という形にして、次の人に渡せる状態にしていたということですから。
水戸黄門第5部から弥七専属になっていた
面白いのは、この継承が引退の何十年も前から始まっていたことです。
『水戸黄門』では第5部より、森山陽介さんが風車の弥七専属のアクション吹き替え担当になっています。
第5部の放送は1974年です。
2012年の引退から逆算すると、40年近く前ということになります。
一番弟子に看板役を任せながら、自身は「特技」として全体を見る側に回っていった、という流れが見えてきますよね。
引退時にいきなりバトンを渡したのではなく、長い時間をかけて渡し続けていた。
そう考えると、2012年の引退はゴールというより、最後のひと押しだったのかもしれません。
2025年に始まった春日太一のnote連載
引退から10年以上が経ってから、宍戸さんの名前をまた目にする機会が増えました。
きっかけは、映画史・時代劇研究家の春日太一さんによるインタビュー連載です。
2025年8月7日、noteで「宍戸大全さんインタビュー」の連載がスタートしました。
毎月第1週に1回ずつ更新される形式です。
このインタビュー、実は撮り下ろしではありません。
春日さんご本人が第1回で書いているのですが、取材そのものは2009年3月に東映京都撮影所で行われたものです。
そして「残念ながら現在に至るまで発表の機会をえることができませんでした」とのことで、16年ほど眠っていた原稿だったんですね。
それがnoteの本格稼働をきっかけに、ようやく世に出た形です。
第1回では、1978年の『柳生一族の陰謀』からJACが京都に参入してきた話題から、宍戸さんが「千葉のところの志穂美悦子が全くできないんですよ」と語り出す場面までが無料で読めます。
その先は有料ですが、この一言だけでも当時の現場の空気が伝わってきますよね。
全13回で2026年8月に完結した
この連載は全13回で、2026年8月に完結しています。
春日さんの告知によると、必殺シリーズ、『柳生一族の陰謀』、勝新太郎さんとジミー・ウォングさんの話、『忍びの者』と市川雷蔵さん、近衛十四郎さんなど、時代劇ファンには見逃せない話題が並んだ内容だったようです。
途中には「『暴れん坊将軍』はお庭番の価値をわかっていない!」と題した回もありました。
最終回では内田吐夢監督や『水戸黄門』の裏話にも触れられています。
なお2026年9月からは、後続として池広一夫監督のインタビュー連載が始まっているので、宍戸さんの連載枠はすでに終了しています。
現在の宍戸大全さんの「新しい情報」は、2009年の取材をもとにした語りという形で世に出た、というのがここ1〜2年の動きです。
「まだ元気なのか」と探す声が残る理由
このキーワードで検索する人がいる理由は、実はとてもはっきりしています。
Yahoo!知恵袋には2022年9月に「時代劇やヒーロー物に名前が絶対に出てくる宍戸大全さんはまだ元気なんでしょうか」という質問が投稿されています。
回答は「1929年11月生まれだから、もうすぐ93歳になられるはずです。常識的には、メディアへの出演もなく、静かに余生を送られていると思われます」というものでした。
ただし、これは回答者の方の推測であって、公式に確認された近況ではありません。
翌2023年3月にも「宍戸大全さんってどんな印象の方だったんでしょうか」という別の質問が立っています。
つまり、名前は知られているのに近況だけが伝わってこない。
この状態が何年も続いているんですよね。
理由を自分なりに考えてみると、3つあるように思います。
ひとつは、そもそも顔が知られていないこと。
ふたつめは、引退後に所属事務所や公式サイトといった発信の窓口が見当たらないこと。
みっつめは、クレジットとしての「特技 宍戸大全」があまりにも長く画面に出続けたため、再放送のたびに新しい人が名前を覚えてしまうことです。
名前だけが再放送で更新され続け、本人の近況だけが更新されない。この非対称が、検索が途切れない理由だと考えられます。
宍戸大全の現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、宍戸大全さんの現在を調べている方が一緒に気になりやすいポイントをまとめていきます。
経歴のことから代表作、意外な仕事まで、知るほど「この人がいたから成立していたのか」と思える話ばかりですよ。
特技というクレジットが指していた仕事
まず、この「特技」という言葉から整理しておきたいと思います。
時代劇のオープニングやエンディングで「特技 宍戸大全」と表記されていたあれです。
春日太一さんの説明によれば、この「特技」は今でいうスタントマンのことを指しています。
アクションシーンなど危険を伴う撮影のときに、俳優の吹き替えをするスペシャリストですね。
具体的にどの部分を担当していたかというと、宙返りや飛び降り、それらをした直後の後ろ姿、後ろ姿での立ち回り、後ろ姿で走っている姿などです。
言われてみれば、時代劇で「今、顔が見えないな」と感じる一瞬がありますよね。
あそこが宍戸さんたちの仕事だったわけです。
ちなみに肩書については資料によって少し揺れがあります。
Wikipediaでは「スタントマン・俳優」、一部の資料では「殺陣師」として紹介されています。
殺陣師は、刀や武器を使った立ち回りや乱闘の場面を組み立て、俳優に指導する職業です。
どちらも実際にやっていた仕事なので、どの側面を強調するかの違いと考えてよさそうです。
本名は宍戸邦博で福島県保原の出身
プロフィールも押さえておきましょう。
本名は宍戸邦博(ししど くにひろ)さんで、出身は福島県です。
1948年に、旧制の福島県立保原中学校を卒業しています。
これは現在の福島県立保原高等学校にあたる学校です。
ちなみに「大全」という名前の読みですが、通常は「だいぜん」です。
ただ『週刊朝日』1964年7月3日号のインタビュー記事では「ししどひろやす」とルビが振られていたという記録も残っています。
本名の「邦博」に近い読み方ですね。
当時はまだ芸名としての読みが完全には固まっていなかったのかもしれません。
日体大でアキレス腱を痛め五輪を断念
意外に思われるかもしれませんが、宍戸さんはもともと映画の人ではありませんでした。
オリンピック選手を目指して日本体育大学に進学し、体操に打ち込んでいたのです。
ところが練習中に左のアキレス腱を痛めてしまいます。
これにより、メルボルンオリンピックへの夢を断念することになりました。
メルボルン大会は1956年の開催ですから、ちょうど大映の現場に立った年と重なります。
……ここ、読んでいて少し胸が締めつけられるところでもあります。
その後は高校の体育教師として働いていました。
秋田県の女子校である旧大館桂高校に勤めていたという記録と、1956年当時は大阪の高校にいたという記録が残っています。
なお、TBSの『水戸黄門』公式サイトの紹介文にも「宍戸さんは大学の体操部出身」「チームの人たちもだいたい体操経験者や、現役の体操部員」という記述があり、体操という土台がそのままチームの性格になっていたことが分かります。
大映入りのきっかけは鼠小僧の代役
では、体育教師だった人がどうして撮影所に入ったのか。
これがまた偶然なんですよね。
1956年、大映京都撮影所で長谷川一夫さん主演の『鼠小僧忍び込み控』を撮影中にケガ人が出たのがきっかけでした。
「体操の先生なら身軽だろう」ということで、臨時にスタンド・イン(吹きかえ)として呼ばれたそうです。
そしてその縁で、そのまま大映に入社することになります。
人生が変わる瞬間って、だいたいこういう形なのかもしれません。
大映時代は、市川雷蔵さんをはじめとするスターのスタンド・インを担当しました。
1961年に岡田茂に引き抜かれ東映へ
その後、1961年に東映へ移ります。
当時は五社協定という、映画会社の間で俳優やスタッフの移籍を制限する取り決めがあった時代です。
そのなかで、東映京都撮影所長だった岡田茂さんが宍戸さんを直接引き抜いたというのですから、評価の高さがうかがえます。
東映とは専属契約を結びましたが、他社作品にも出演していました。
1964年の大映『忍びの者 霧隠才蔵』で市川雷蔵さんの吹き替えを担当しているのがその一例です。
ただ、移籍直後はあまり仕事がなかったそうで、体育の先生に戻ろうかと考えていた時期もあったと伝えられています。
その矢先に訪れたのが、1962年頃からの忍者ブームでした。
忍びの者で作った日本初の忍者アクション
忍者ブームは、宍戸さんにとって大きな転機になりました。
それまでの忍者映画はトリック撮影でごまかすことができていたのですが、ブーム以降は実技として見せる必要が出てきます。
そこで主演俳優の身替わりを務められるスタンド・インが引っ張りだこになり、宍戸さんはその代表格になりました。
春日太一さんは、2018年11月17日に三重県伊賀市で開かれた三重大学の忍者・忍術講座の講演で、次のように語っています。
「1962年に公開された市川雷蔵主演の『忍びの者』で、日本初のスタントマンである宍戸大全が、自衛隊のレンジャー部隊に倣って忍者のアクションを考案した」
自衛隊のレンジャー部隊を参考にした、というのが具体的で面白いところです。
私たちが今イメージする「忍者の動き」の原型は、この時に作られたということになります。
撮影所に冒険クラブを作って猛特訓
宍戸さんがすごいのは、技術を個人の勘に頼らなかった点です。
1964年夏の封切りを予定していた映画の準備のため、東映京都撮影所内に「冒険クラブ」を作っています。
そこに跳躍用のトランポリンやスポンジマットを買い入れ、高さ14〜15メートルの城壁から飛び降りる場面をワンカット(長回し)で撮れるよう猛特訓したそうです。
14〜15メートルといえば、ビルの4〜5階に相当します。
想像するだけで足がすくみますよね。
また、1963年のアメリカのコメディ映画『おかしなおかしなおかしな世界』にスポンジマットを10個並べたスタントシーンがあり、これを観た宍戸さんは「日本でももっと冒険者の身の保証と、撮影設備があれば」とため息をついたと伝えられています。
……この一言、重いです。
命を張る側の人が、自分の安全ではなく「設備」という言葉で語っているところに、当時の現場の厳しさが出ている気がします。
水戸黄門の風車の弥七を支えた宙返り
宍戸さんの仕事で最も多くの人が目にしているのは、おそらく『水戸黄門』でしょう。
中谷一郎さんが演じた風車の弥七の宙返り、あれです。
弥七は登場シーンが派手で、高いところから1〜3回の宙返りをして現れることが多いキャラクターでした。
このスタントを、アクション指導を兼ねていた宍戸さんと、一番弟子の森山陽介さんが担当していました。
弥七の宙返りが初めて見られたのは第1部です。
以降、第23部を除いて第24部まで継続されました。
第23部と第25部では宙返りこそなかったものの、屋根などからの飛び降りは引き続き行われています。
第22部から第28部のスタッフクレジットにも「特技 宍戸大全」の記載が残っています。
つまり弥七というキャラクターの魅力は、中谷一郎さんの芝居と宍戸さんたちの身体が半分ずつ作っていたということです。
なお、宍戸さん自身も俳優として『水戸黄門』に何度も出演しています。
第1部第12話の乞食役、第2部の忍び役や雲水役、第3部の柘植者の忍者役などです。
かなり後になりますが、2002年10月14日放送の第31部第1話にも太田の百姓役で出ています。
必殺シリーズや暴れん坊将軍にも出演
『水戸黄門』以外の代表作も見ておきましょう。
必殺シリーズには複数回、役者として出演しています。
| 作品 | 話数・役名 |
|---|---|
| 新・必殺仕置人 | 第17話「代役無用」久六/第40話「愛情無用」又八 |
| 必殺商売人 | 第5話/第26話「毒牙に噛まれた商売人」参造 |
| 翔べ! 必殺うらごろし | 第22話「死人が教えた金のありか」き樵り |
| 必殺仕事人 | 第63話 源次/第70話 刺客 |
| 新・必殺仕事人 | 第23話 森田屋泰蔵/第40話 盗賊/第51話 越前屋 |
| 必殺仕事人III | 第27話 塾講師 |
役名を見ると、久六、又八、参造、き樵り……と、どれも一話限りの端役ばかりです。
でもこの「毎回違う人物として画面にいる」というのが、当時の撮影所の仕事のかたちだったんですよね。
『吉宗評判記 暴れん坊将軍』では、1981年3月14日放送の第152話「将軍と馬泥棒とガキ大将」に馬方役で出演しています。
ちなみに春日太一さんのnote連載には「『暴れん坊将軍』はお庭番の価値をわかっていない!」と題した回があり、この作品についての宍戸さん自身の見方も語られています。
そのほか、映画では『大忍術映画 ワタリ』(1966年)のカンネ役、『極悪拳法』(1974年)の日野玄洋役などがあります。
テレビでは『銭形平次』『怪獣王子』『大岡越前』『江戸を斬る』『遠山の金さん捕物帳』など、時代劇と特撮の両方に名前が残っています。
肥前夢街道の忍者屋敷をプロデュース
最後に、少し毛色の違う仕事を紹介させてください。
1990年、佐賀県の嬉野温泉に「肥前夢街道」という時代型テーマパークが開業しました。
現在は「佐賀元祖忍者村 肥前夢街道」として運営されている施設です。
このとき宍戸さんは、園内施設および「はがくれ忍者屋敷」を建設段階から総合プロデュースしています。
さらに開業後しばらくは、宍戸大全アクションチームとして園内で忍者ショーも行っていました。
撮影所で培った技術を、観光施設という全く別の場所に持ち込んだわけです。
肥前夢街道は、関所・奉行所・忍者屋敷・芝居小屋・からくり時計塔など約40の施設を持つ江戸時代がテーマのパークで、現在も「はがくれ忍者ショー」などが行われています。
スクリーンの中だけでなく、実際に人が歩く場所としての忍者空間まで手がけていたというのは、この人の仕事の幅を象徴していると思います。
宍戸大全の現在のまとめ
- 宍戸大全は2012年春に引退しており、それ以降の現場復帰は確認できない
- プロフィール上の活動期間は1956年から2012年までの56年間
- 生年月日は1929年11月24日で、2026年9月時点では96歳にあたる
- 訃報や死去を報じた記事は確認できず、Wikipediaでも存命人物として扱われている
- 引退後のテレビ出演やイベント登壇といった近況の露出は見当たらない
- もともと顔を出す仕事ではなく、引退後に姿が見えないのは自然な流れともいえる
- 宍戸大全アクションチームは一番弟子の森山陽介が引き継いで活動している
- 森山陽介は『水戸黄門』第5部から風車の弥七専属の吹き替えを担当していた
- 2025年8月から春日太一によるインタビュー連載がnoteで始まった
- 連載のもとになった取材は2009年3月に東映京都撮影所で行われたもの
- この連載は全13回で2026年8月に完結し、後続は池広一夫監督の連載となっている
- 2022年のYahoo!知恵袋に「まだ元気なのか」という質問が残っており、近況が伝わっていない状態が続いている
- 「特技」というクレジットは現在でいうスタントマンを指す
- 本名は宍戸邦博で、福島県の旧制保原中学校を1948年に卒業している
- 日本体育大学でアキレス腱を痛め、メルボルン五輪への道を断念して体育教師になった
- 1956年の『鼠小僧忍び込み控』でケガ人が出た際の代役が大映入りのきっかけ
- 1961年に東映京都撮影所長の岡田茂に引き抜かれて東映へ移籍した
- 1962年の『忍びの者』で自衛隊レンジャー部隊に倣った忍者アクションを考案したとされる
- 『水戸黄門』の風車の弥七の宙返りは宍戸大全と森山陽介が担当していた
- 1990年には佐賀県の肥前夢街道で「はがくれ忍者屋敷」を総合プロデュースした


