本田路津子さんといえば、澄んだ歌声で1970年代のカレッジフォークをけん引したスターですよね。
紅白歌合戦に2度出場しながら、わずか5年で表舞台から姿を消してしまったので、その後どうしているのか気になっている方は多いのではないでしょうか。
実は今もマイクの前に立ち続けていて、歌っている場所がちょっと意外なんです。
・本田路津子さんの現在の活動内容と、拠点にしている場所
・人気絶頂だった1975年に引退した理由と、渡米していた年月
・帰国後にゴスペルシンガーとして歌に戻るまでの経緯
本田路津子の現在はゴスペルシンガー
本田路津子さんの現在について、活動内容から暮らしぶり、引退の経緯まで順番に見ていきますね。
先に結論だけ言ってしまうと、歌をやめたわけではありませんでした。
現在はゴスペルシンガーとして活動
本田路津子さんは現在、教会を活動の中心に置くゴスペルシンガーとして歌い続けています。
1970年にフォークシンガーとしてデビューし、1975年に引退。
そこから長い空白があったので「もう歌っていないのでは」と思われがちなんですが、そうではないんですよ。
1988年にアメリカから帰国したあと、賛美歌の歌い手として活動を再開しています。
歌う場所は、いわゆるコンサートホールばかりではありません。
国内外の教会に加えて、学校や病院、福祉関係の施設でも歌ってきたと紹介されています。
つまり、チケットが売れる場所ではなく、聴いてほしい人がいる場所へ出向くスタイルに変わったということですね。
ゴスペルシンガーとしての受賞歴
フォーク時代の実績で語られることが多い方ですが、復帰後の歌でもきちんと評価を受けています。
2001年度には第4回ゴスペルCCM賞大賞のアーティスト部門とアルバム部門を同時受賞し、あわせて国際ソロプチミスト賞(福岡-東)も受賞しました。
賞を2部門同時に取るというのは、歌い手としての評価とアルバムの完成度の両方が認められたということです。
引退から四半世紀を経てなお、こういう形で評価されているのは素直にすごいと思います。
デビュー50周年を記念したコンサート
活動が続いていることが一番よく分かるのが、2020年の節目です。
デビュー50周年を迎え、2020年4月17日に東京都中野区のなかのZERO大ホールで記念コンサートが予定されました。
あわせて最新アルバム『聖なる主〜Boundless Grace〜』も発売されています。
50年前の持ち歌をなぞるだけでなく、新しい音源を出し続けているところに、現役であることがよく表れていますよね。
拠点は福岡県宗像市
生活の場についても情報があります。
現在は福岡県宗像市に住んでいると紹介されています。
生まれは同じ福岡県でも大牟田市なので、県内ではあるものの出身地に戻ったわけではないんですね。
高校進学と同時に上京し、結婚してアメリカへ渡り、帰国後は九州へ。
こうして並べてみると、ずいぶん大きく動いてきた人生だなと感じます。
活動の範囲も九州だけにとどまりません。
帰国後は九州を拠点にしながら、全国の教会をまわるコンサートツアーを続けてきました。
実際、後で触れる2024年のコンサートは横浜での開催です。
77歳という年齢を考えると、九州から関東まで出向いて歌うというのは相当な体力ですよ。
2024年もクリスマスコンサートに出演
「本当に今も歌っているの?」という疑問に、いちばんはっきり答えてくれる出来事がこれです。
2024年12月15日、横浜市青葉区荏田町のイエスの栄光教会でクリスマスコンサートに出演しました。
地元紙のタウンニュースが開催前と開催後の両方で記事にしています。
歌ったのはクリスマス・キャロルの『かいばおけの干し草に』だけではありませんでした。
デビュー曲の『秋でもないのに』や、朝ドラ主題歌の『耳をすましてごらん』も披露しています。
ゴスペル一色ではなく、フォーク時代の代表曲もちゃんと届けてくれるんですね。
当時をリアルタイムで聴いていた世代にとっては、これはたまらないと思います。
記事では「カレッジフォークの第一人者としてブームをけん引し、現在はゴスペルシンガーとして活躍する」と紹介されました。
2024年末の時点で現役の歌い手として報じられている、というのが何よりの答えです。
1975年に引退した理由
ここが一番知りたいところですよね。
人気絶頂だったのに、なぜ5年で辞めてしまったのか。
本人がインタビューで語った言葉が残っています。
「スケジュールがずっと詰まっていて、休む時間がありませんでした」。
「芸能人というのは、自分の存在自体が商品。ずっと何かに振り回されているような気がしていました」。
つまり引退の理由は、5年間の芸能活動で心身ともに疲れ果ててしまったことでした。
表向きには1975年の結婚を機とした引退とされていますが、その手前に限界があったわけです。
歌が嫌になったのではなく、歌を商品として消費される日々に耐えられなくなった。
……この違いは大きいと思います。
だからこそ、教会という別の場所で歌に戻ってこられたのかなと感じました。
さよならコンサートで歌ったアメイジング・グレイス
引退の場面には、その後を暗示するような一幕がありました。
さよならコンサートでジュディ・コリンズの『アメイジング・グレイス』を歌い、キリスト教への帰依を明かしたのです。
最後の舞台の選曲が賛美歌だったというのは、もう次の道が見えていたということですよね。
その後、日本基督教団の東中野教会で受洗しています。
引退と信仰が地続きだったことがよく分かるエピソードです。
結婚と渡米で過ごした年月
受洗のあと、クリスチャンの男性と結婚して夫の仕事の都合でアメリカへ渡りました。
華やかな世界からはきっぱり離れ、未練はなかったと語られています。
5年間ずっと走り続けたあとですから、その気持ちは分かる気がします。
アメリカでの生活は、まったく歌と無縁だったわけではありません。
現地の日本人教会と交流し、教会でゴスペルを歌う機会もあったといいます。
人前に立つ仕事はやめても、歌そのものは手放していなかったんですね。
帰国は1988年です。
ここで一点、注意しておきたいことがあります。
引退が1975年で帰国が1988年ですから、単純に計算すると13年になりますが、インタビュー記事では「約9年間、米国で生活」と語られています。
数字が合わないので、渡米の時期が結婚の直後ではなかった可能性があると考えるのが自然です。
ソースによって年数の表現が違うので、ここは幅を持たせて読んでおくのがよさそうですね。
夫はクリスチャンで息子が1人
家族についても分かっていることがあります。
夫はクリスチャンの一般男性で、ワシントン大学に留学していた経歴があると紹介されています。
以前はアメリカで仕事をしていたとのことで、渡米はその流れによるものと見られます。
芸能関係者ではないため、名前や顔は公表されていません。
子どもは息子が1人。
こちらも一般の方で、詳しいプロフィールは非公開です。
2018年時点では孫はいないとされていました。
ただし、この家族に関する情報は特定のまとめサイト1件が出どころで、本人や大手メディアが繰り返し語っている話ではありません。
参考程度に受け止めておくのが安全かなと思います。
77歳になった今も続く歌声への評価
本田路津子さんは1949年1月6日生まれで、2026年時点で77歳です。
この年齢で全国の教会をまわり、コンサートで往年の代表曲まで歌い切っているわけですから、評価する以前にまず驚かされますよね。
2024年のクリスマスコンサートを伝えた記事では「豪華なクリスマスコンサート」と見出しが付き、招かれる歌い手としての存在感がうかがえます。
デビュー50周年のインタビューでは、本人がこんなふうに話していました。
「こんな私が歌っていていいんだろうかと思う時もありますが、神様の目に私は尊いものなんだと思わされ、支えられてきました」。
好きな聖句は「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43章4節)だそうです。
……50年以上歌ってきた人が、いまだにこんな迷いを抱えていると知ると、なんだかじんわりしますよね。
商品として消費されることに疲れて辞めた人が、支えられて歌う場所を見つけた。
それが本田路津子さんの現在だと言っていいと思います。
本田路津子の現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、本田路津子さんの現在とあわせて調べられることが多い、フォーク時代の代表曲や経歴をまとめます。
名前は知っているけれど曲が思い出せない、という方はここを読むと一気につながりますよ。
デビュー曲「秋でもないのに」の大ヒット
デビューのきっかけはコンテストでした。
1970年9月1日、ハルミラフォークコンテストでジョーン・バエズの『シルキー』を歌って優勝しています。
これを機に、当時フォーク界で勢いのあったCBSソニーと契約しました。
デビュー曲となった『秋でもないのに』は、もともとギタリストの石川鷹彦さんの持ち歌でした。
それを女性が歌う形にアレンジし、歌詞も男言葉から女言葉へ書き換えたものです。
火が付いた場所も面白いんですよ。
ニッポン放送の人気番組『フォークビレッジ』など深夜放送で流れたことをきっかけに、いきなりヒットしました。
ちなみに彼女はソニーミュージックにおける女性フォークシンガーの第1号でもあります。
森山良子さんと並んでカレッジフォークの第一人者と呼ばれたのは、この澄んだ歌声あってのことですね。
「一人の手」で紅白歌合戦に2度出場
紅白歌合戦には第22回(1971年)と第23回(1972年)の2度出場しています。
1971年に歌ったのが『一人の手』でした。
この曲は少し変わった成り立ちをしています。
アレックス・コンフォートの詩『One Man’s Hands』にピート・シーガーが曲を付けたもので、反戦と人種差別への抗議を訴える歌でした。
そして日本語詞を書いたのは本田路津子さん本人です。
歌わされていたのではなく、自分の言葉に置き換えて歌っていたということですね。
泥臭いメッセージフォークとは対極にある清冽な歌声で、こういう歌を届けていたわけです。
翌1972年の第23回では『耳をすましてごらん』を歌いました。
朝ドラ主題歌「耳をすましてごらん」とみんなのうた
テレビを通じて彼女の声を覚えている方も多いはずです。
1972年のNHK連続テレビ小説『藍より青く』の主題歌が『耳をすましてごらん』でした。
脚本を担当した山田太一さんが作詞し、作曲は湯浅譲二さんです。
朝ドラの主題歌ですから、毎朝あの声が全国に流れていたことになりますね。
さらにNHK『みんなのうた』でも歌っています。
代表的なのが1972年放送の『小犬のプルー』で、作詞は林權三郎さん、作曲は柳沢剛さんです。
『今日の日はさようなら』もみんなのうたで歌われました。
卒業式の定番として知られるあの曲を、リアルタイムで彼女の声で聴いた世代もいるわけです。
フォークファンだけでなく、朝ドラと子ども番組の両方から声が記憶されている。
世代を超えて名前が残っているのは、この露出の広さが理由だと思いますよ。
出身は福岡県大牟田市で桜美林大学へ
生まれは1949年1月6日、福岡県大牟田市です。
その後、新潟県へ転居しています。
進路の選び方がなかなか思い切っていて、桜美林高等学校への入学と同時に、東京都町田市へ単身で移り住みました。
高校生で親元を離れて上京というのは、当時としてもかなりの決断ですよね。
そのまま桜美林大学文学部英文科を卒業しています。
在学中は聖歌隊に所属し、英字新聞の編集にも参加していました。
賛美歌に触れていたのも、英語の歌を自然に歌えたのも、この学生時代があってこそということですね。
コンテストでジョーン・バエズを選んだ背景も、ここまで来ると納得できます。
名前の由来は旧約聖書のルツ記
最後に、名前についてです。
「路津子」という珍しい名前は、旧約聖書のルツ記に由来すると紹介されています。
両親はもともとクリスチャンで、父親は大正4年生まれの音楽好き。
オペラやクラシックを愛好していたそうです。
家族は両親と妹の4人でした。
名付けの時点で信仰と音楽の両方が家にあった、ということになりますね。
引退後に受洗してゴスペルへ進んだ流れは、突然の方向転換ではなく生まれたときからの土壌に帰った動きだったのかもしれません。
なお、この家族と名前に関する情報も出どころが1件のみなので、確定情報としてではなく参考として押さえておいてください。
本田路津子の現在のまとめ
- 現在は教会を中心に歌うゴスペルシンガーとして活動を続けている
- 生年月日は1949年1月6日で、2026年時点の年齢は77歳
- 住まいは福岡県宗像市とされ、九州を拠点に全国の教会をまわっている
- 2024年12月15日には横浜市青葉区のイエスの栄光教会でクリスマスコンサートに出演
- そのコンサートでは秋でもないのに、耳をすましてごらんも披露した
- 2020年にデビュー50周年を迎え、なかのZERO大ホールで記念コンサートが行われた
- 同時期にアルバム聖なる主〜Boundless Grace〜を発売している
- 2001年度に第4回ゴスペルCCM賞大賞のアーティスト部門とアルバム部門を受賞
- 同年、国際ソロプチミスト賞(福岡-東)も受賞している
- 引退は1975年で、理由は5年間の芸能活動による心身の疲弊だったと本人が語っている
- さよならコンサートでアメイジング・グレイスを歌い、キリスト教への帰依を明かした
- 引退後は東中野教会で受洗し、クリスチャンの男性と結婚して渡米した
- 帰国は1988年だが、米国生活の年数はインタビューでは約9年とされ数字に開きがある
- 夫はワシントン大学に留学した経歴を持つ一般男性で、息子が1人いるとされる
- デビュー曲は1970年の秋でもないのに、紅白歌合戦には1971年と1972年の2度出場した


