フジサンケイグループの3代目議長だった鹿内宏明さんが、いまどこで何をしているのか気になりますよね。
実は活動の舞台はもう日本ではなく、英国・ロンドンに移っているんです。
オックスフォード大学の博物館に鹿内家の名前が残っていると知ったら、きっと驚くと思いますよ。
・鹿内宏明の現在の肩書と生活拠点
・ロンドンで続けているオックスフォード大学への支援活動
・1992年の解任から資本関係が切れるまでの経緯
鹿内宏明の現在は鹿内事務所の代表取締役
フジサンケイグループの3代目議長だった鹿内宏明さんが、いま何をしているのか気になりますよね。
結論から言うと、拠点も肩書きもすっかり変わっていて、活動の舞台は日本ではありません。
現在は株式会社鹿内事務所の代表取締役
まず肩書きから確認していきます。
鹿内宏明さんの現在の役職は、株式会社鹿内事務所の代表取締役です。
テレビ局や新聞社の会長として名前が出ていた頃とは、まったく性格の違う立場ですね。
鹿内事務所は個人の資産や活動を管理するための会社で、放送・新聞といったメディア事業を持っているわけではありません。
つまり、現在の鹿内宏明さんはメディア業界の経営者ではなく、一個人としての投資・文化活動を軸に動いている人物です。
経歴を見ると、そもそもこの人はメディアの人ではなかったんですよね。
東京大学法学部を出て日本興業銀行(現在のみずほ銀行)に入行し、1970年代後半には海外子会社のIBJインターナショナルの立ち上げでロンドンに赴任しています。
つまり出発点は金融マンです。
フジサンケイグループに入ったのは43歳のとき。
義兄にあたる鹿内春雄さんが1988年3月に42歳の若さで急死し、義父・鹿内信隆さんの強い要請でメディアの世界に入りました。
言い方を変えると、本人が望んでその椅子に座ったわけではなかったということになります。
そう考えると、1992年にグループを離れたあと金融・投資の世界へ戻っていったのは、むしろ元の場所に帰ったという見方もできそうです。
| 時期 | 立場 |
|---|---|
| 1968年 | 日本興業銀行 入行 |
| 1970年代後半 | IBJインターナショナル立ち上げでロンドン赴任 |
| 1988年 | フジサンケイグループ入り(鹿内家と養子縁組) |
| 1989年12月 | グループ会議議長・基幹3社の代表取締役会長 |
| 1992年7月 | 解任・辞任によりグループを離れる |
| 現在 | 株式会社鹿内事務所 代表取締役 |
生活拠点をロンドンに移したのは2004年
現在の鹿内宏明さんを語るうえで、いちばん大きいのがここです。
2004年、鹿内宏明さんは妻とともにロンドンに居を構えました。
日本を離れてすでに20年以上ということになります。
「最近まったく名前を見かけない」と感じている人が多いのは、当然といえば当然で、そもそも生活の場が海外なんですよね。
しかもロンドンは、鹿内さんにとって縁のない土地ではありません。
前述のとおり1970年代後半に興銀の子会社立ち上げで赴任していて、若い頃に数年を過ごした街です。
本人はその頃の経験について、海外に「放り込まれた」という言い方をしています。
そのときの土地に、30年近く経ってからもう一度腰を据えたわけです。
つまり鹿内宏明さんの現在の生活拠点は英国・ロンドンで、日本のメディアに露出しないのは活動の場そのものが日本にないからです。
オックスフォード大学の日本ギャラリーを支援
ロンドンに移ってからの活動で、いちばん形として残っているのがこれです。
鹿内宏明さんは、オックスフォード大学附属アシュモレアン博物館の日本コレクションを支援してきました。
アシュモレアン博物館は世界最古の大学博物館とも言われる施設で、その日本展示室のスポンサーになっているんですね。
この日本ギャラリーには、鹿内家の名前が冠されています。
きっかけは2004年、博物館が大改修に取りかかるタイミングでした。
ポール・チェン教授の紹介でディベロップメント・コミッティ(開発委員会)に加わったのが始まりだと本人が語っています。
オックスフォードとケンブリッジのどちらに関わるかで迷い、最終的にオックスフォードを選んだそうです。
興味深いのは、名前が冠された理由についての本人の説明です。
寄付をしたからではなく、未来につながる本気の議論に参加し続けた結果だ、という趣旨のことを話しています。
お金を出して終わり、ではなかったということですね。
……ここ、けっこう好きなエピソードです。
日本のメディア経営から離れた人が、海を渡って日本文化の展示室を支え続けているというのは、なかなか他にない話だと思いませんか。
茶室「にんげん堂」を寄付した経緯
支援のなかでもとくに具体的なのが、茶室の寄贈です。
2009年、鹿内宏明さんはアシュモレアン博物館に茶室「にんげん堂」を寄付しました。
この茶室は現地で適当に組み立てたものではありません。
材料はすべて日本から運び、茶室建築を専門とする日本の大工・職人が渡英して建てています。
建設費についてはJALが負担したとされています。
英国の博物館のなかに、日本の職人が日本の材で建てた茶室がある。
現在の鹿内宏明さんの活動は、こうした日英をつなぐ文化支援に軸足を置いていると言えます。
英国赤門学友会を立ち上げた経緯
もうひとつ、現在につながる活動があります。
英国赤門学友会という、英国在住の東京大学出身者による同窓会組織です。
鹿内宏明さんは、この英国赤門学友会の設立発起人を務めています。
きっかけは2007年、ロンドンでの会食の席でした。
東京大学の前総長・小宮山宏さんから、国立大学の法人化にともなって海外にもOB基金の組織が必要だという話を持ちかけられたそうです。
そこから準備が進み、2009年1月24日に第一回総会が開かれました。
参加者は約60名。
本人はこの会について、単なる駐在会の枠を超えて母校の若い後輩たちを支援する会にしたかった、と語っています。
さらに、本当に人生の助けになるのは、損得の話をしない、年齢も仕事も関係のない自由で平等な仲間だ、という言葉も残しています。
グループを追われた経験を持つ人の言葉として読むと、少し重みが違って聞こえますよね。
表舞台から消えた原因は1992年の解任
ここが、鹿内宏明さんの現在を検索する人がいちばん引っかかっている部分だと思います。
なぜフジサンケイグループのトップだった人が、日本のメディアからいなくなったのか。
答えははっきりしていて、1992年7月21日、産経新聞社の取締役会で会長職を解任されたからです。
解任の理由として示されたのは、グループを私物化し新聞を代表する者として不適任である、という趣旨のものでした。
中心にいたのは日枝久さんと羽佐間重彰さんだったとされ、この一件は後に「鹿内宏明解任クーデター」と呼ばれるようになります。
翌7月22日、鹿内さんは自ら記者会見を開きました。
そしてニッポン放送・フジテレビジョン・サンケイビルの会長職と、フジサンケイグループ議長の辞任を発表します。
その後は取締役も辞任し、フジサンケイコーポレーションは解散。
創業家である鹿内家によるグループ経営支配は、この2日間で終わりました。
義父・鹿内信隆さんが1990年に亡くなった、そのわずか2年後の出来事です。
12分で終わった取締役会
その日の取締役会の様子も、断片的に伝えられています。
議題は事前に知らされておらず、突然の提示だったとされます。
鹿内さんは「取締役会のこの議題は認められません」と反発し、事前通知がないこと、理由が明確でないことを指摘しました。
しかし羽佐間社長は「理由は申し上げられません」と説明を拒んだと伝えられています。
取締役会そのものは、わずか12分で終了しました。
退室していく役員たちに向かって、鹿内さんは「これは闘いになりますよ」と言い放ったとされています。
……12分です。
数十年続いた創業家の支配が終わるのに、それだけの時間しかかからなかったことになります。
これは、さすがに応えたでしょうね。
現在の年齢は81歳
最後に基本情報も押さえておきます。
鹿内宏明さんは1945年5月26日生まれで、2026年時点の年齢は81歳です。
出身は東京都。
本名は佐藤宏明さんで、鹿内姓になったのは1988年に鹿内信隆さん・英子さん夫妻と養子縁組をしてからです。
つまり生まれたときから鹿内家の人だったわけではありません。
学歴は東京教育大学附属高等学校を経て、東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。
解任されたのは46歳のときですから、その後の人生のほうがずっと長いことになりますね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1945年5月26日 |
| 年齢 | 81歳(2026年時点) |
| 出身地 | 東京都 |
| 本名 | 佐藤宏明 |
| 学歴 | 東京教育大学附属高校 → 東京大学法学部第3類 |
| 現在の役職 | 株式会社鹿内事務所 代表取締役 |
鹿内宏明の現在を調べる人向けの関連情報
現在の活動と合わせて調べられているのが、解任の相手方や家族、そして手放した資産のことです。
ここからは、そのあたりをまとめて見ていきます。
解任クーデターを主導したとされる日枝久
鹿内宏明さんとセットで検索されるのが、日枝久さんの名前です。
日枝さんはもともと、義兄の鹿内春雄さんに編成局長として抜擢された人物でした。
つまり鹿内家によって引き上げられた側だったわけです。
その日枝さんが、1992年の解任決議では立ち上がった一人だったと伝えられています。
ただし取締役会の最中はほとんど発言せず、沈黙を保っていたとされます。
鹿内さん自身は、日枝さんを信頼していた幹部だと考えていたようです。
後年、「彼が首謀者だったんだな」という趣旨の発言をしたと伝えられています。
取締役会が終わったあと、鹿内さんは日枝さんのやけに明るい背広と、その表情に引っかかりを覚えたとも語られています。
信頼していた相手が動いていた、という構図ですね。
この一件が、鹿内宏明さんが日本のメディア業界から完全に離れる決定打になりました。
妻・厚子は鹿内信隆の次女
家族についても触れておきます。
鹿内宏明さんの妻は、厚子さんです。
厚子さんはフジサンケイグループ初代議長・鹿内信隆さんの次女で、2人は1972年11月に結婚しています。
結婚の時点では、宏明さんはまだ興銀の行員でした。
そして1988年に信隆さん・英子さん夫妻と養子縁組をして、鹿内姓になります。
結婚から養子縁組まで16年空いているのが、この家の事情を物語っていますよね。
信隆さんの後継者はあくまで長男の春雄さんで、宏明さんは娘婿という立場だったからです。
その春雄さんが1988年3月に肝炎で亡くなり、状況が一変しました。
厚子さんは現在、宏明さんとともにロンドンで暮らしています。
つまり鹿内宏明さんの妻・厚子さんは、鹿内家の血筋そのものであり、現在も夫婦で英国に拠点を置いています。
息子・隆一郎はメリルリンチでM&Aを担当
子供についても情報があります。
鹿内宏明さんと厚子さんの長男が、鹿内隆一郎さんです。
隆一郎さんはオックスフォード大学を卒業したのち、メリルリンチに就職し、M&A(企業の合併・買収)を担当していたと伝えられています。
父親と同じ金融の世界、それも企業買収の最前線ですね。
2008年1月時点の報道では、隆一郎さんは当時35歳で、ある上場企業の株式を3分の1以上買い集めて経営者側に接触している、と報じられたことがあります。
ただしこの報道は有料部分に本文が続く形で、無料で読める範囲に企業名は出ていません。
そのため、どの会社の話だったのかまでは確認できませんでした。
オックスフォード大学卒という学歴と、父親がオックスフォードの博物館を支援していることを並べると、この一家と英国の結びつきの深さが見えてきます。
息子の隆一郎さんもまた、メディアではなく金融の世界で活動してきた人物です。
資産の中心だったニッポン放送株の行方
「資産」というキーワードで調べる人が多いのは、鹿内家が長くニッポン放送の大株主だったからです。
グループの経営からは外れたものの、株は手元に残っていました。
実際、解任後もしばらくは鹿内家が筆頭株主の状態が続き、株主総会に出席していたと伝えられています。
経営権は失っても、資本の力は残っていたわけですね。
鹿内さん本人も、ニッポン放送の筆頭株主として経営陣への復帰を画策したとされています。
しかし、それも終わりを迎えます。
2005年1月、鹿内宏明さんは保有していたニッポン放送株のうち2,970株を除く約262万5,000株(発行済株式の約8%)を、大和証券SMBCに売却しました。
鹿内家は前年9月時点で第3位の株主でした。
売却先の大和証券SMBCは、経済合理性に基づく純投資でありニッポン放送の経営に参加する意図はない、適切な時期に売却するとコメントしています。
この売却が行われたのは、まさにライブドアによるニッポン放送株の買い集めが表面化していく時期でした。
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1992年7月 | 解任・辞任でグループ経営から離脱 |
| 1992年〜 | 鹿内家が筆頭株主として株主総会に出席 |
| 2004年9月時点 | 鹿内家がニッポン放送株の8.0%を保有し第3位株主 |
| 2005年1月 | 約262万5,000株を大和証券SMBCへ売却 |
この売却をもって、鹿内宏明さんとフジサンケイグループの資本上のつながりは完全に切れました。
経営権を失ったのが1992年、資本のつながりが切れたのが2005年。
グループから完全に離れるまでに、13年かかったことになります。
鹿内宏明の現在のまとめ
- 現在の肩書きは株式会社鹿内事務所の代表取締役
- メディア企業の経営には関わっておらず、個人としての活動が中心
- 生活拠点は英国・ロンドンで、移り住んだのは2004年
- ロンドンは興銀時代の1970年代後半に赴任していた縁のある土地
- オックスフォード大学附属アシュモレアン博物館の日本コレクションを支援
- 同館の日本ギャラリーには鹿内家の名前が冠されている
- 2009年に茶室「にんげん堂」を寄付し、材料と職人は日本から運ばれた
- 英国赤門学友会の設立発起人で、第一回総会は2009年1月24日
- 1945年5月26日生まれ、2026年時点で81歳、東京都出身
- 本名は佐藤宏明で、1988年に鹿内信隆・英子夫妻と養子縁組した
- 1992年7月21日に産経新聞社取締役会で会長職を解任された
- 解任の中心は日枝久・羽佐間重彰とされ、取締役会は12分で終了したと伝えられる
- 妻・厚子は鹿内信隆の次女で、1972年11月に結婚
- 長男・隆一郎はオックスフォード大学卒でメリルリンチのM&A担当だったとされる
- 2005年1月にニッポン放送株の大部分を大和証券SMBCへ売却しグループとの資本関係が終了


