北原三枝の現在は93歳の石原まき子!石原プロをたたんだ2021年の決断とは?

北原三枝の現在は93歳の石原まき子!石原プロをたたんだ2021年の決断とは?

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北原三枝さんの現在が気になって検索したものの、名前で調べても近況が出てこない……という方は多いと思います。

それもそのはずで、北原三枝さんはいま石原まき子さんという名前で、93歳を迎えて元気に暮らしていますよ。

夫・石原裕次郎さんが遺した「即会社をたたみなさい」という言葉を、30年以上たってから実行した人でもあるんです。

この記事を読むとわかること
・北原三枝の現在の年齢と、いまの名前・肩書
・石原プロモーションが2021年に業務を終了するまでの経緯
・女優として活動した8年間と、引退した理由

北原三枝の現在は石原まき子としての姿

「あの北原三枝さんは今どうしているんだろう」と気になって検索した方が多いと思います。

結論から言うと、名前を石原まき子さんに変えて、いまも元気に暮らしていますよ。

ここでは現在の年齢から、石原プロの幕引き、いまの肩書まで、順番に見ていきますね。

現在は93歳で石原まき子として存命

まず、いちばん気になるところからいきましょう。

北原三枝さんは現在も存命で、石原まき子(いしはら まきこ)さんという名前で暮らしています

生年月日は1933年7月23日なので、2026年8月の時点で93歳ということになりますね。

「北原三枝」というのは女優時代の芸名で、本名は結婚前が荒井まき子さん、結婚後が石原まき子さんです。

つまり、北原三枝という名前で活動していた期間のほうが、人生全体で見ればずっと短いんですよ。

女優を辞めたのが1960年ですから、もう60年以上も「石原まき子」として生きてきたことになります。

検索で「北原三枝 現在」と打っても情報が少なく感じるのは、この名前の切り替わりが理由です。

近況を追いたいときは、石原まき子さんのほうで調べたほうが情報が出てきますよ。

デビューまでの経歴は日劇ダンシングチームから

生まれは東京都目黒区で、目黒区立第二中学校を卒業しています。

その後に入ったのが、当時の若い女性の憧れだった日劇ダンシングチーム(NDT)で、5期生としての入団でした。

1952年にNDTを退団し、同じ年に松竹のニューフェイスに合格して映画の世界へ入ります。

本格的なデビュー作となったのが、木下惠介監督の『カルメン純情す』でした。

踊り子から映画女優へ、というルートを通っているんですね。

このあたりの経歴は、いまの「石原プロの会長さん」というイメージからは、ちょっと想像しにくいかもしれません。

石原プロは2021年に業務を終了

現在を語るうえで外せないのが、石原プロモーションの幕引きです。

石原プロモーションは2021年1月16日をもって、芸能事務所としての業務を終了しました

発表があったのは、その前年の2020年7月17日

この日付、ピンときた方もいるかもしれません。石原裕次郎さんの命日なんですよ。

発表の名目も「石原プロモーションの商号を石原裕次郎の仏前に返還する」というもので、単なる会社の閉鎖ではなく、夫のもとへ会社を返す、という形が取られています。

このとき代表取締役会長を務めていたのが、まき子さんでした。

裕次郎さんが亡くなったのが1987年ですから、そこから30年以上、夫の名前がついた会社を守り続けてきた末の決断だったわけです。

……なんというか、重みのある区切りですよね。

裕次郎の遺言は「即会社をたたみなさい」だった

解散の発表にあわせて、まき子さんはある言葉を明かしています。

裕次郎さんが遺したのは「俺が死んだら即会社をたたみなさい」という言葉だったそうです。

そして本人のコメントとして「石原裕次郎の遺言を実行いたしました」と伝えられました。

ここ、少し考えさせられませんか。

遺言どおりなら1987年に会社をたたんでいたはずが、実際には30年以上あとの決断になっています。

その間に石原プロは渡哲也さんが2代目社長として引っ張り、俳優陣も抱えていました。

すぐにたためなかったのではなく、たたむべきタイミングをずっと計っていた、と読むほうが自然かなと思います。

社員や俳優の身の振り方を考えれば、そうそう即断できるものではないですからね。

いまの肩書は2つの組織の名誉会長

では、石原プロが無くなったあと、まき子さんはどんな立場にいるのでしょうか。

現在は一般社団法人ISHIHARA石原音楽出版社、この2つの組織の名誉会長を務めています。

役割がきれいに分かれているので、表にしておきますね。

組織 役割 まき子さんの立場
一般社団法人ISHIHARA 石原裕次郎の遺品の管理 名誉会長
石原音楽出版社 楽曲・作品の版権の管理 名誉会長

一般社団法人ISHIHARAが設立されたのは、業務終了の発表前日にあたる2020年7月16日でした。

つまり、受け皿を先に作ってから会社をたたむ発表をしている、という順番なんですよ。

石原プロという看板は下ろしたけれど、裕次郎さんの遺品と作品を守る仕組みは残した、というのが現在の姿です

名誉会長という肩書からも分かる通り、日々の実務を回す立場ではありません。

高齢ですから当然といえば当然で、現場は次の世代に渡してある形ですね。

甥の邦彦と養子縁組して後を託す

その「次の世代」が誰なのかも、気になるところだと思います。

まき子さんと裕次郎さんの間に子供はいません。

そこでまき子さんは、自身の甥である邦彦さんと養子縁組をして、石原邦彦さんとして代表に就任させています

血のつながりでいえば、まき子さんの側の親族ということになります。

石原邦彦さんは石原音楽出版社の代表取締役、そして一般社団法人ISHIHARAの代表理事という立場です。

なお、邦彦さんの年齢や私生活について書いているサイトもありますが、こちらは裏づけが1か所しか見つからなかったので、この記事では触れないでおきますね。

確かなのは、養子縁組という形で石原家と遺産管理の後継が決まっている、という点です

「裕次郎さんの息子がいるらしい」という話を見かけることがありますが、実子ではなく、この養子縁組の話が形を変えて伝わったものと考えるのが自然かなと思います。

石原裕次郎記念館は2017年に閉館

もうひとつ、現在の状況を知るうえで押さえておきたいのが記念館の話です。

北海道小樽市築港にあった石原裕次郎記念館は、2017年8月31日に閉館しました

開館は1991年ですから、26年ほど続いたことになります。

閉館の理由として挙げられているのは、入場者の減少と館内の老朽化でした。

最終日にはファンおよそ3,000人が集まり、まき子さんをはじめ、舘ひろしさんや神田正輝さんといった石原プロの関係者も駆けつけています。

3,000人ですよ。閉館する施設に、です。

……これはちょっと、じんとくる数字じゃないでしょうか。

時系列で見ると、2017年に記念館が閉館し、2020年に石原プロの業務終了が発表され、2021年に幕が下りています。

記念館の閉館は、石原プロという物語の終わり方が具体的に動き出した地点だった、と見ることができます

死因が検索されるのは訃報の混同

検索していると「石原まき子 死因」というワードが出てきて、驚いた方もいるかもしれません。

先に書いたとおり、まき子さんは存命です。死因を調べる必要のある状況ではありません

ではなぜこのワードが出てくるのか。理由として考えられるのは、周辺の方々の訃報が続いたことです。

人物 関係 訃報の時期
石原裕次郎 1987年
渡哲也 石原プロ2代目社長 2020年
石原慎太郎 夫の兄 2022年

こうして並べると分かりやすいと思います。

石原という名字にまつわる訃報が数年おきに報じられ、しかも同じ時期に石原プロの解散という大きなニュースが重なりました。

そこへ本人が90歳を超えているという情報が加われば、検索する人が出てくるのも無理はないですよね。

ちなみに渡哲也さんが亡くなったとき、まき子さんは「全てを終え石原のいる来世に旅立った」というコメントを出しています。

見送る側として言葉を残しているわけで、この一点だけでも誤解だと分かる話です。

北原三枝の現在を調べる人向けの関連情報

ここからは、北原三枝さんの現在を調べている方が一緒に気にしているポイントをまとめていきます。

女優時代のことや、裕次郎さんとの結婚の話など、現在に至るまでの背景が分かる内容ですよ。

女優として活動したのはわずか8年

意外に思われるかもしれませんが、北原三枝さんの女優人生は驚くほど短いんです。

1952年のデビューから1960年の引退まで、およそ8年間しかありません。

93年の人生のうちの8年ですから、割合でいえばごくわずかですよね。

それでもこれだけ名前が残っているのは、その8年の密度が異常だったからです。

1954年に日活へ移籍すると、女優陣のエースとして次々に主演をこなしました。

『青春怪談』での役柄から、当時の言い方でM型(男っぽいという意味)女優と呼ばれ、都会的でボーイッシュな雰囲気が若い世代に刺さったと言われています。

クールな美貌に、日本人離れしたプロポーション。

いまの言葉に置き換えるなら、あの時代の「かっこいい女性」の代名詞みたいな存在だったんだと思います。

短い活動期間でトップに立ち、頂点にいるまま辞めた女優、というのが北原三枝さんの実像です

代表作は『狂った果実』と裕次郎との23作

代表作として真っ先に挙がるのが、1956年の『狂った果実』です。

原作は石原慎太郎さん、舞台は夏の逗子海岸。

そしてこの作品が、石原裕次郎さんとの初共演作でもありました。

ここから2人は日活のドル箱コンビと呼ばれるようになり、共演作は23作にのぼります。

『勝利者』『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』『陽のあたる坂道』といったタイトルが並び、いま見ても日活の代表作ばかりです。

8年のうち、後半のほとんどが裕次郎さんとの共演で埋まっていた計算になりますね。

スクリーンの中で恋人役を重ねた2人が、そのまま実生活でも夫婦になった、というわけです。

石原裕次郎との結婚で女優を引退

引退の理由は、はっきりしています。結婚です。

1960年、石原裕次郎さんと結婚し、それを機に女優業を引退しました

女優として最後の出演作となったのが『闘牛に賭ける男』でした。

ただ、この結婚はすんなり決まったわけではありません。

当時の芸能界は、トップスター同士の結婚どころか恋愛すらNGという空気でした。

スターの人気は「手が届きそう」という感覚に支えられている、と考えられていた時代です。

日活側も、看板の2人が結ばれることには強く反対したとされています。

それでも2人は交際を続け、駆け落ち同然でアメリカへ婚前旅行に出た、という話まで伝わっています。

こうした事情を並べていくと、引退は「結婚したから辞めた」というより、結婚を通すために女優を降りるしかなかったという順序だったのではないかと思えてきます。

反対を押し切って一緒になるなら、片方が現場を離れるのがいちばん収まりがいい。

そう考えると、当時23作を撮った日活のエースが、あっさり画面から消えた理由も腑に落ちますよね。

もちろんこれは残っている事実から組み立てた見方なので、本人がそう語ったという記録があるわけではありません。

結婚式は日活国際ホテルで挙げた

結婚式そのものも、当時としては桁外れの騒ぎだったようです。

会場は東京・日比谷の日活国際ホテルでした。

伝えられている数字がすごいので、並べてみますね。

項目 内容
挙式年 1960年
会場 日活国際ホテル(東京・日比谷)
報道関係者 120社・240人
招待客 400人

報道120社というのは、いまの感覚でもなかなか見ない規模です。

さらに面白いのが、この結婚式で用意されたウエディングケーキの話。

当時の日本ではまだ珍しかったウエディングケーキがここで大きく報じられ、それをきっかけに広まったとされています。

いま結婚式でケーキ入刀をするのが当たり前になっているのは、この式の影響という説があるんですよ。

え、そうだったの!?って感じですよね。

ただ、この結婚式まわりの話は情報源が限られているので、細かい数字については「そう伝えられている」という受け止め方をしておくのが安全かなと思います。

八頭身と評された当時のスタイル

北原三枝さんを語るときに必ず出てくるのが、スタイルの良さです。

当時の評として残っているのが「日本人離れした八頭身」という言葉でした。

『狂った果実』の水着姿や、雑誌グラビアでの立ち姿がその象徴として語られています。

1950年代の日本でこの評価ですから、相当に目立っていたはずです。

ちなみに、具体的な身長の数値は映画データベースや各種プロフィールを見ても記載がありません。

身長そのものは公表されておらず、残っているのは八頭身という当時の評価のほうです

この時代の女優は、身長や体重を細かく公表する習慣自体が薄かったので、数字が出てこないのはある意味自然なことですね。

著書2冊に残した裕次郎との日々

現在の活動としてもうひとつ触れておきたいのが、本を出していることです。

まき子さんは裕次郎さんについて、2冊の著書を残しています。

刊行年 書名
1988年 裕さん、抱きしめたい
2013年 死をみるとき 裕さんが書き遺したもの

1冊目の『裕さん、抱きしめたい』は、裕次郎さんが亡くなった翌年の刊行でした。

亡くなって1年で本を書くというのは、気持ちの整理という意味でも簡単なことではなかったと思います。

そして2冊目は、そこから25年後。

『死をみるとき 裕さんが書き遺したもの』というタイトルからも分かるように、夫が遺した言葉と向き合う内容になっています。

会社を守り、遺品を守り、本の形でも言葉を残す。これが北原三枝さんの、女優を辞めてからの60年間だったわけです

なんというか、ひとつのことをずっとやり続けた人生ですよね。

北原三枝の現在のまとめ

  • 北原三枝は現在も存命で、石原まき子として暮らしている
  • 生年月日は1933年7月23日で、2026年8月時点で93歳
  • 出身は東京都目黒区で、目黒区立第二中学校を卒業している
  • 日劇ダンシングチーム5期生を経て、1952年に松竹でデビューした
  • 1954年に日活へ移籍し、女優陣のエースとして活躍した
  • 1956年の『狂った果実』で石原裕次郎と初共演し、共演作は23作を数える
  • 1960年に裕次郎と結婚し、『闘牛に賭ける男』を最後に引退した
  • 女優としての活動期間は約8年間だった
  • 結婚式は東京・日比谷の日活国際ホテルで行われたとされる
  • 引退後は石原プロモーションの経営に関わり、2011年から代表取締役会長を務めた
  • 2020年7月17日に、石原プロの業務終了を発表した
  • 石原プロは2021年1月16日をもって芸能事務所としての業務を終えた
  • 現在は一般社団法人ISHIHARAと石原音楽出版社の名誉会長を務めている
  • 甥の邦彦と養子縁組し、石原邦彦として代表に就任させている
  • 石原裕次郎記念館は2017年8月31日に閉館し、最終日には約3,000人が集まった
  • 死因が検索されるのは、周囲の訃報と混同した誤解によるものとみられる

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