国際政治学者としてテレビでもおなじみの廣瀬陽子さん。
その父親がどんな人なのか、気になっている方は多いのではないでしょうか。
実は廣瀬陽子さん自身が、父親について意外な「位置づけ」を語っているんです。
・廣瀬陽子の父親について公表されている範囲
・両親の離婚後、父親代わりを務めた人と家族の形
・父親代わりの母の仕事と、進路で投げかけた一言
廣瀬陽子の父親について本人が語ったこと
廣瀬陽子さんの父親について、本人がインタビューで語った内容をもとに整理していきます。
父親その人よりも、両親の離婚後に誰が「父の役」を担ったのかが見えてくると、廣瀬陽子さんの生い立ちがぐっと分かりやすくなりますよ。
父親の名前や職業は公表されていない
まず結論からお伝えすると、廣瀬陽子さんの父親の名前・職業・現在の様子は公表されていません。
廣瀬陽子さんはテレビでロシア・ウクライナ情勢を解説する機会が増え、「どんな家庭で育ったんだろう」と気になった方も多いと思います。
ただ、Wikipediaのプロフィールや大学の研究者情報に書かれているのは学歴と職歴、そして「既婚・1児の母」という点まで。
父親について触れているのは、廣瀬陽子さん本人が受けたインタビューの中の、ごく短い言葉だけなんです。
そのインタビューは主に2つあります。
| 媒体 | 時期 | 父親・家族について語った内容 |
|---|---|---|
| Wendy-Net(マンション情報誌のインタビュー連載) | 2022年9月 | 両親の離婚、母の実家での4人暮らし、「祖母が母、母が父」という位置づけ |
| 文藝春秋(有働由美子さんとの対談) | 2022年12月 | 両親の離婚後は母と母方の祖父母と暮らしたこと、母の仕事の経歴 |
どちらも、父親がどんな人だったかではなく、離婚のあと誰と暮らしてきたかに話の中心があります。
父親は芸能人でも公人でもない一般の方と考えられるので、この記事でも本人が語った範囲を超えて詮索することはしません。
つまり、父親本人の情報は出てこないものの、廣瀬陽子さんの「父親像」は、本人の言葉から読み取れるということです。
両親は1歳くらいの時に離婚していた
廣瀬陽子さんの両親は、廣瀬陽子さんが1歳くらいの時に離婚しています。
これはWendy-Netのインタビューで、廣瀬陽子さん自身が冒頭に語っていることです。
廣瀬陽子さんは1972年8月生まれなので、離婚は1973年ごろということになりますね。
1歳というと、まだ言葉もおぼつかない時期。
父親と一緒に暮らした記憶は、本人の中にほとんど残っていないのではないかと思います。
有働由美子さんとの対談では、小学校時代を振り返って「親が離婚するケースも当時は少なかった」とも話していました。
当時のクラスで、ひとり親の家庭の子どもは珍しい存在だったのかもしれません。
この対談では、小学校でいじめられている子をかばったところ、自分が標的になってしまった体験も語られています。
そのショックが、区立小学校から私立中学を受験する一番のきっかけになったそうです。
……幼いころから、なかなか大変な思いもしてきたんですね。
父親と離れたのは物心つく前のことで、廣瀬陽子さんにとっては「最初から父親のいない家」が当たり前だったと考えられます。
離婚後は母と母方の祖父母の4人で暮らした
両親の離婚後、廣瀬陽子さんは母の実家で、母と祖父母との4人暮らしをしていました。
この点は、Wendy-Netのインタビューと文藝春秋の対談の両方で語られています。
実家があったのは東京都渋谷区で、廣瀬陽子さんは原宿で育ちました。
母は仕事で朝早く出かけて深夜に帰ってくる生活だったため、家で過ごす時間の多くは祖父母と一緒だったそうです。
小学生のころの廣瀬陽子さんは「100%インドア派」で、本がお友達。
2年生くらいで、学校や区の図書館にある歴史や伝記の本を全部読んでしまったと話しています。
母が不在がちで、祖父母と過ごす静かな家だったからこそ、本の世界にのめり込んでいったのかもしれませんね。
祖母は2022年に100歳で亡くなった
一緒に暮らした祖母は、2022年2月に100歳で亡くなりました。
東京都などから賞状を受けるほど長生きし、長く患うことなく、自宅で看取ることができたそうです。
廣瀬陽子さんは祖母を「世界一尊敬できる人」と語り、「人のために尽くしなさい」「お友達を大事にしなさい」とよく言われていたことを明かしています。
アゼルバイジャン留学時代にも、祖母と母が一緒に写った写真が残されていて、3世代の女性のつながりの強さが伝わってきます。
なんか、じんわりしますよね。
本人の中では「母が父」という位置づけだった
父親について、廣瀬陽子さんの言葉でいちばん印象に残るのがこれです。
Wendy-Netのインタビューで、廣瀬陽子さんは「私の中では祖母が母、母が父、という位置づけでした」と語っています。
家事や日々の世話をして、人としての生き方を教えてくれたのは祖母。
外で働いて家計を支え、進路の大きな場面で方向を示したのは母。
こうして役割を分けてみると、廣瀬陽子さんの家では、いわゆる「父親の役」を母が担っていたことが分かります。
| 家族 | 廣瀬陽子さんの中での位置づけ | 語られている役割 |
|---|---|---|
| 祖母 | 母 | 家で一緒に過ごし、「人のために尽くしなさい」と教えた |
| 母 | 父 | デザイナーとして働き、中学・大学の進路で決め手になる言葉をかけた |
| 祖父 | (特に語られていない) | 母の実家で一緒に暮らした |
| 父親 | (語られていない) | 1歳くらいで両親が離婚 |
「父親はどんな人?」と検索してこの記事にたどり着いた方にとっては、少し意外な答えかもしれません。
でも、廣瀬陽子さんにとっての「父」は、ずっと母のことだったんですね。
廣瀬陽子さんの父親像を知りたいなら、実の父親ではなく「母」の姿を見るのがいちばんの近道だといえます。
父親代わりの母はデザイナーとして働いた
父の役を担った母は、第一線で働くデザイナーでした。
Wendy-Netでは「グラフィック・デザイナー」、文藝春秋の対談では「インダストリアルデザイナー」と紹介されていて、呼び方には違いがあります。
ただ、対談で語られた経歴を読むと、どちらの仕事も経験してきた方だと考えるのが自然かなと思います。
日産から日本工業大学の広報室長まで
有働由美子さんとの対談で、廣瀬陽子さんは母の経歴をこう紹介しています。
| 時期 | 母の仕事 |
|---|---|
| 最初 | 日産で車のカラーデザインに携わる |
| その後 | デザイン事務所に勤務 |
| 独立 | 中小企業診断士の資格を取り、企業のコーポレートデザインなどを手がける |
| バブル崩壊後 | 日本工業大学の広報室長として定年まで勤める |
自動車メーカーのデザインから、資格を取っての独立、そして大学の広報室長まで。
当時の女性としては、かなり先を行くキャリアですよね。
廣瀬陽子さんは母のことを「私以上のワーキングマザー」と表現していて、毎晩「午前様」のような生活だったそうです。
家で母に会うことはめったになかった、とも話しています。
離婚後の一家の暮らしは、このデザイナーの母の仕事によって支えられていたわけです。
母が東大志望に「何をしたいの?」と問いかけた
父親代わりの母が、廣瀬陽子さんの人生を大きく動かした場面があります。
それが大学受験です。
高校2年生のころの廣瀬陽子さんは、模試で東大法学部(文科一類)のA判定が出ていて、東大に進むつもりでいました。
ところが、そのことを母に話すと「あなたは東大でいったい何をしたいの?言ってごらんなさい」と返されたそうです。
対談では「偏差値で大学を選ぶより自分がやりたいことで選んだ方がいい」とも言われたと明かしています。
子どもが東大に受かりそうなら、ほとんどの親は背中を押しそうな場面ですよね。
正直、この返しには驚きました。
廣瀬陽子さんは「偏差値がいちばん高いところに行けば人生成功」という考えしかなかったと振り返っていて、そこから真剣に「大学で何をしたいのか」を考えるようになります。
行き着いたのが、国際社会を総合的に学べる慶應義塾大学の湘南藤沢キャンパス(SFC)でした。
AO入試で進学し、入学直後にゴルバチョフ氏と会う機会を得たことが、旧ソ連研究の道につながっていきます。
中学受験でも母の一言があった
中学受験のときも、母は塾の先生に「教育方針が気に入ったから娘は桐朋にしか行かせません」と宣言したそうです。
受験したのは桐朋女子の1校だけでした。
一方で、母から「勉強しろ」と言われたことは一度もなく、ふだんは「完全放任」だったとも語っています。
日々の細かいことには口を出さず、進路の大事な場面でだけ、ずばっと方向を示す。
まさに「父親の役」らしい関わり方を、母がしていたことが伝わってきます。
働く母の背中が息子への接し方にもつながった
母が忙しく、家にほとんどいなかったことについて、廣瀬陽子さんは「寂しかった」と正直に話しています。
それでも、母が職場に連れて行ってくれる機会があり、自分のために頑張ってくれている姿を見て納得できたそうです。
子どもにとって、親の働く現場を見るのは大きな体験ですよね。
そしてこの経験が、今度は廣瀬陽子さん自身の子育てにつながっていきます。
廣瀬陽子さんも、息子を大学の研究室や学会に連れて行き、仕事をする姿を見せてきました。
国際学会の最中、iPadの電池が切れたらしい息子が、ほふく前進で登壇者席まで出てきて会場の爆笑を買ったというエピソードもあります。
……読んでいてこちらまで笑顔になりました。
父親代わりだった母の「働く背中を見せる」育て方は、廣瀬陽子さんから息子へと受け継がれているんですね。
「父親の古希」の投稿は別人のもの
「廣瀬陽子 父親」で検索すると、「父親の70歳古希祝い」というInstagramの投稿が上位に出てくることがあります。
ただ、これは廣瀬陽子さんとは別人のアカウントの投稿です。
投稿には「男3兄弟」と書かれていて、アカウント名の「hirose」が一致したために一緒に表示されていると考えられます。
廣瀬陽子さんの父親の近況として紹介されているわけではないので、混同しないように注意してくださいね。
廣瀬陽子の父親を調べる人向けの関連情報
ここからは、廣瀬陽子さんの父親を調べている方がよく一緒に検索している、家族構成や若い頃の話をまとめます。
家族構成は夫と息子との3人
現在の廣瀬陽子さんの家族構成は、夫と一人息子です。
Wikipediaでも「既婚、1児の母」と紹介されています。
生まれ育った家族と、今の家族を並べると次のようになります。
| 家族 | 生まれ育った家(母の実家) | 現在の家族 |
|---|---|---|
| 本人 | 廣瀬陽子さん | 廣瀬陽子さん |
| 親・配偶者 | 母(デザイナー) | 夫 |
| その他 | 祖父母 | 息子(一人っ子) |
父親のいない家で育った廣瀬陽子さんが、今は夫と息子との家庭を築いている、というわけですね。
旦那は札幌の大学に単身赴任していた
廣瀬陽子さんの旦那さんについては、名前などの詳しい情報は公表されていません。
Wendy-Netのインタビューで語られているのは、2022年の春から札幌の大学に単身赴任しているということです。
同じ時期に息子は中学に入学し、廣瀬陽子さん自身はロシアのウクライナ侵攻以降、テレビなどへの出演が激増。
本人も「家族の生活は一変、大激変です」と話していて、家族がそれぞれの場所で踏ん張っていた様子がうかがえます。
子供は一人息子で2022年に中学へ入学
廣瀬陽子さんの子供は、息子が1人です。
2022年の春に中学に入学していて、同年12月の対談では「中学1年生の息子がいます」と話していました。
多忙で夕飯を一緒に食べられない日が多いため、毎朝6時に起きてお弁当を作るのは絶対に欠かさないそうです。
当時の息子は反抗期で、返事は「うん」「普通」ばかりだったとか。
国際政治の第一線で解説をこなしながら、家ではひとりの母親として奮闘している姿には親近感がわきますね。
若い頃は原宿育ちでカルトQに出場
廣瀬陽子さんは東京都渋谷区で生まれ、原宿で育ちました。
渋谷区立神宮前小学校の出身です。
大学生の頃には、マニアックな知識を競うクイズ番組「カルトQ」に出場しています。
テーマは地元の「渋谷」でしたが、結果は50点で5人中4位だったそうです。
中学2年生の夏には、母のすすめで通っていた語学スクールのプログラムで、韓国に1カ月弱ホームステイも経験しました。
ソウルオリンピック直前の1986年で、大歓迎を受ける一方、8月15日の反日デモも目の当たりにし、「日本人はアジアの歴史を知らなすぎる」と感じたと語っています。
高校は桐朋女子で副執行長を務めた
廣瀬陽子さんの出身高校は、桐朋女子中学校・高等学校です。
中学では生徒会長にあたる「中央委員長」、高校では仲の良い友達を支える形で「副執行長」を務めました。
運動は苦手だと思っていたものの、友達のすすめで少し遅れて卓球部に入部。
本番に強いタイプで、地元の大会で賞をもらったこともあるそうです。
その後は慶應義塾大学総合政策学部に進み、1995年に学年約500人の中から首席で卒業。
卒業式では「表彰 慶應義塾 1995 廣瀬陽子君」と刻まれた金時計を受け取りました。
大学から首席の連絡があったとき、電話を取り次いだのは一緒に暮らす祖母だったそうですよ。
廣瀬陽子の父親のまとめ
- 廣瀬陽子の父親の名前・職業・現在は公表されていない
- 父親について語られているのは本人のインタビューでのごく短い言葉だけ
- 両親は廣瀬陽子が1歳くらいの時に離婚した
- 離婚後は母の実家で母・祖父母との4人暮らし
- 実家は東京都渋谷区で、原宿育ち
- 本人の中では「祖母が母、母が父」という位置づけだった
- 父の役を担った母はデザイナーとして働いた
- 母は日産のカラーデザインから独立を経て、日本工業大学の広報室長まで勤めた
- 母は毎晩遅くまで働き、家で会うことはめったになかった
- 東大A判定の娘に、母は「東大で何をしたいの?」と問いかけた
- その一言がきっかけで慶應SFCを選び、旧ソ連研究の道へ進んだ
- 母の職場を見て納得した経験から、自身も息子に働く姿を見せてきた
- 一緒に暮らした祖母は2022年2月に100歳で亡くなった
- 「父親の古希」のInstagram投稿は別人のもの
- 現在の家族は夫と一人息子


