「また逢う日まで」で日本中を沸かせた尾崎紀世彦さんには、2人の娘さんがいました。
しかも2人は母親が違い、片方はハワイ、もう片方は日本で育っています。
闘病中の尾崎さんが体を押してハワイへ飛んだ理由を知ると、この親子の話がぐっと近く感じられるはずですよ。
・尾崎紀世彦の娘が2人いる理由と、長女・良奈と次女それぞれの立場
・長女がハワイで産んだ双子と、闘病中の尾崎紀世彦が交わした最後の時間
・次女をめぐって死後に報じられた遺産相続のいきさつ
尾崎紀世彦の娘は2人!長女と次女の素顔
「また逢う日まで」で一時代を築いた尾崎紀世彦さんには、2人の娘さんがいました。
生まれた家庭も、父との距離も、まったく違う2人です。
ここでは公表されている範囲の情報をもとに、長女・良奈さんと次女それぞれの歩みを整理していきますね。
娘は2人で子供は全部で3人
まず全体像から押さえておきましょう。
尾崎紀世彦さんは生涯で2度結婚しています。
子供は全部で3人。娘が2人と息子が1人という構成でした。
1度目の結婚相手はハワイ出身の女性で、この結婚で長女と長男が生まれています。
2度目の結婚相手は日本人女性で、こちらで次女が生まれました。
つまり2人の娘は母親が異なり、育った国も環境もまったく別だったということになります。
同じ父を持ちながら、片方はハワイ、片方は日本。
これだけでも、なかなか複雑な家族の形ですよね。
| 子供 | 生まれた結婚 | 母親 | 主な報道 |
|---|---|---|---|
| 長女・良奈 | 1度目(1973年結婚) | ハワイ出身の女性 | ハワイ在住。2012年に双子を出産 |
| 長男・紀世彦Jr. | 1度目(1973年結婚) | ハワイ出身の女性 | ハワイ在住。晩年の看病に加わった |
| 次女 | 2度目(1991年結婚) | 日本人女性 | 名前は公表されていない |
3人の年齢差はおよそ20年
長女の良奈さんは1974年ごろ、長男の紀世彦Jr.さんは1976年ごろに生まれたとされています。
一方、次女が生まれたのは1993年ごろ。
2012年に尾崎さんが亡くなった時点で、次女は19歳と報じられました。
長女とはおよそ20歳近い年齢差があった計算になります。
きょうだいというより、親子ほど離れた開きですね。
長女・良奈はハワイ在住の女性
2人の娘のうち、公の場で言葉を残しているのは長女の良奈(らな)さんです。
良奈さんは1度目の結婚相手であるベティーさんとの間に生まれ、母親と同じくハワイで暮らしてきました。
尾崎紀世彦さんが1991年に離婚したあと、良奈さんはハワイ側の家族として父と離れて生活していたことになります。
それでも親子の縁が切れていたわけではなく、尾崎さんの晩年には良奈さんが日本まで駆けつけて看病に加わっています。
離婚から20年以上が経ってなお、こうして子供が父のもとへ戻ってくる。
……なんというか、じんわりくる話ですよね。
しのぶ会で父について語った長女
2012年9月2日、東京・ホテルオークラ東京で尾崎紀世彦さんのしのぶ会が開かれました。
この場に良奈さんも参列し、報道陣の前で父との最後の日々について語っています。
同席したのは弟にあたる長男の紀世彦Jr.さん。
ハワイに暮らす2人の子供が、そろって日本での追悼の席に立った形です。
このとき良奈さんが明かしたのが、次の項目で触れる初孫との対面のエピソードでした。
良奈が2012年に出産した双子の孫
良奈さんの人生と尾崎紀世彦さんの最期は、ひとつの出来事で強く結びついています。
2012年2月1日、良奈さんはハワイで双子の女児を出産しました。
尾崎さんにとっては初孫です。
しかもこのとき、尾崎さんはすでに肝臓がんで闘病中でした。
前年の2011年4月には療養のために公演を中止し、活動を止めていた状態です。
そんなタイミングで届いた初孫誕生の報せ。
病床にいた父にとって、これ以上ないほど大きな知らせだったはずです。
実際、尾崎さんはこのあと自分の体調を押してハワイへ渡ることになります。
その経緯は次で詳しく見ていきましょう。
闘病中にハワイへ渡り初孫と対面
初孫が生まれたと知った尾崎紀世彦さんは、どうしても会いたいと願ったと報じられています。
女性自身の報道によれば、医師からは「行くなら、いま行きなさい」という言葉があったといいます。
裏を返せば、それだけ先延ばしにできる状態ではなかったということですよね。
正直、この一行を読んだときは胸が詰まりました。
そして2012年2月下旬、尾崎さんはハワイへ渡ります。
滞在はおよそ10日間。
良奈さんは当時の様子について「2人をいっぺんに抱っこして、すごく喜んでたんです」と語っています。
がんの闘病中に太平洋を越えてまで会いに行った初孫との時間が、尾崎さんの最後の家族旅行になりました。
再入院後に来日し病床へ付き添った
ハワイでの対面は、これで終わりではありませんでした。
帰国後の2012年4月、尾崎紀世彦さんは再び入院します。
すると今度は良奈さんのほうが、生まれたばかりの双子を連れて日本へやって来ました。
そして父の病床に付き添っています。
良奈さんはしのぶ会で「3カ月ぐらい一緒にいられた。(娘の)3カ月の成長を見せることができてよかった」と話しました。
生まれてすぐの3カ月を、祖父と一緒に過ごせたということですね。
そして良奈さんたちが日本を離れた翌日に、尾崎さんは息を引き取りました。
見せるものを見せ終えてから、静かに逝ったようなタイミングです。
これはもう、言葉にしづらいですね。
看病を担ったのは1度目の家族だった
晩年の尾崎紀世彦さんを支えたのは、離婚から21年が経っていた1度目の妻とその子供たちでした。
NEWSポストセブンの報道によると、元妻は「別れた人間ですが、子供の父親であるので」と自ら願い出て病院へ通い始めたといいます。
容体が悪化してからは、仕事を終えて毎日面倒を見ていたとのこと。
ハワイに住む長男は仕事を休んで病室に泊まり込みました。
兄の彰彦さんの証言では、亡くなる数日前に尾崎さんが元妻へ「お前がいてくれて、本当によかった。ありがとう…」と伝えたと報じられています。
離婚して20年以上が経ってから、元家族が最期を看取ったという流れです。
次女は2度目の結婚で生まれた
もう1人の娘、次女についても見ていきましょう。
尾崎紀世彦さんは1991年に1度目の結婚を解消したあと、日本人女性と再婚しています。
この結婚で生まれたのが次女で、生年は1993年ごろ。
2012年の報道時点で19歳と伝えられました。
次女の名前や職業、通っていた学校などは公表されていません。
母親である2度目の妻についても、報道では匿名の表記にとどめられています。
芸能活動をしているわけではない一般の方なので、これは当然の扱いですね。
2度目の結婚は2006年に終わった
尾崎紀世彦さんの2度目の結婚生活は、順調とはいかなかったようです。
一部メディアは、子供が生まれてから子育ての方針をめぐって夫婦の対立が深まり、家庭内別居のような状態になったと伝えています。
必要なことは口ではなく紙に書いて伝えていた、という記述もありました。
最終的に離婚が成立したのは2006年とされています。
ただし離婚時期については、結婚から約3年後と書いている媒体もあり、報道によって食い違いがあります。
そのため、ここは2006年説が有力という程度に受け取っておくのが安全ですね。
離婚後、尾崎さんは再婚することなく独身のまま最期を迎えました。
次女をめぐる遺産相続の報道
2人の娘の立場の違いが、いちばんはっきり表れたのが尾崎紀世彦さんの死後でした。
2012年8月、2度目の妻が娘の養育費と遺産相続を求めていると報じられます。
NEWSポストセブンによると、請求されたのは未払いの養育費として約500万円。
さらにそれを差し引いた遺産を3等分し、娘に支払うよう求めたとされています。
ここで押さえておきたいのは、次女にも法的な相続権があるという点です。
親が離婚していても、子であることに変わりはありませんから。
争点になったのは相続権の有無ではなく、要求の内容と金額のほうでした。
遺産の総額と兄弟が語った内訳
報道によると、2度目の妻側は土地建物に6000万円の価値があり、さらに1億円の隠し財産があると主張したといいます。
一方、遺族側が説明した実際の内訳はかなり違っていました。
| 項目 | 妻側の主張 | 遺族側の説明 |
|---|---|---|
| 土地建物 | 6000万円 | 土地3000万円・建物の価値なし |
| その他 | 隠し財産1億円 | 預金1000万円 |
| 合計 | 1億6000万円規模 | 約4000万円 |
尾崎さんの弟である征彦さんは、次女について法的な相続分は渡すつもりだと語ったと報じられています。
一方で、看病に一度も来なかったことへの複雑な心境も口にしていました。
女性自身の一周忌の記事では「死んだ途端に現れて『金、金、金』というのがどうも」というコメントも紹介されています。
これはあくまで遺族側から見た言い分ですが、最期を看取った家族と、相続の場に現れた家族が別だったことが、話をこじれさせた背景にあるようです。
次女に関する情報は現在も出ていない
この遺産相続の報道以降、次女に関する新しい情報はほとんど表に出ていません。
名前も顔も公表されておらず、芸能界に入ったという話もありません。
一般の方として静かに生活していると考えるのが自然でしょう。
尾崎紀世彦さんの娘として公の場に姿を見せたのは、長女の良奈さんだけというのが実情です。
尾崎紀世彦の娘を調べる人向けの関連情報
ここからは、娘について調べている方が一緒に気になりやすい話題をまとめておきます。
息子や妻のこと、家族のルーツ、そして代表曲まで一気に見ていきましょう。
息子の名前は父と同じ紀世彦Jr.
尾崎紀世彦さんには、娘2人のほかに息子が1人います。
名前は尾崎紀世彦Jr.さん。
父親の名前をそのまま受け継いだ形ですね。
1度目の結婚で生まれた長男で、姉である良奈さんと同じくハワイで暮らしています。
生まれたのは1976年ごろとされ、2012年のしのぶ会の時点で30代半ばと報じられました。
年齢については36歳と伝える媒体と35歳と伝える媒体があり、資料によって1歳の差があります。
紀世彦Jr.さんは尾崎さんの闘病中、仕事を休んで病室に泊まり込むほど献身的に付き添っていました。
そして9月のしのぶ会にも姉とともに参列しています。
音楽活動をしているという情報は見当たらないので、芸能界とは別の道を歩んでいるようですね。
妻は2人でどちらとも離婚した
尾崎紀世彦さんは2度の結婚を経験し、どちらも離婚に至っています。
1度目の相手は1973年に結婚したハワイ出身のベティーさん。
アメリカ国籍の女性で、日米のハーフだったと伝える媒体もあります。
この結婚は18年続き、1991年に離婚しました。
2度目の相手は同じく1991年に結婚した日本人女性で、名前は公表されていません。
こちらは2006年に離婚が成立したとされています。
つまり尾崎さんは最後の6年ほどを独身で過ごし、そのまま亡くなったことになります。
ただ、看取ったのが1度目の妻だったという点が、この人の歩みをよく表しているように思います。
| 結婚 | 時期 | 相手 | 離婚 | 子供 |
|---|---|---|---|---|
| 1度目 | 1973年 | ハワイ出身のベティー | 1991年 | 長女・長男 |
| 2度目 | 1991年 | 日本人女性(非公表) | 2006年 | 次女 |
家族はバレエ一家で3人兄弟の次男
尾崎紀世彦さんの実家は、かなり芸術寄りの家庭でした。
父の繁一さんは藤田繁という芸名を持つクラシックバレエのダンサー兼演出家。
母の礼子さんは日劇ダンシングチームの一期生でした。
つまり両親そろって舞台に立つ人だったわけですね。
兄の彰彦さんも藤田彰彦の名でバレエダンサー・演出家として活動しています。
尾崎さんは男3人兄弟の次男で、弟の征彦さんはステーキハウスを経営していました。
征彦さんは2021年8月28日に76歳で亡くなっています。
歌の道に進んだのは兄弟の中で尾崎さんだけでしたが、表現の世界という意味では家族の延長線上にあったとも言えそうです。
ハーフではなく日英クォーター
尾崎紀世彦さんといえば、あの彫りの深い顔立ちと立派なもみあげが印象的でした。
そのためハーフではないかと言われることが多かったのですが、正確には違います。
祖父がイギリス人のヘンリー・バッキンガム・ルーカスさんで、尾崎さんは日英のクォーターにあたります。
ハーフとクォーターでは血の入り方が一世代分違うんですね。
なお身長についても、公称は173cmとされる一方で実際は168〜170cm程度だったとする情報があります。
こちらは資料によって幅があるので、あくまで目安として見ておくのがよさそうです。
死因は肝臓がんで享年69
尾崎紀世彦さんが亡くなったのは2012年5月、69歳のときでした。
死因は肝臓がんで、闘病期間はおよそ1年とされています。
2011年4月に療養のため公演中止を発表し、そこから表舞台から遠ざかっていました。
2012年4月には失踪したのではないかという報道も出ましたが、実際には入院中だったことがのちに分かっています。
亡くなった日付については、5月30日と記載する資料と5月31日と記載する資料があり、1日のずれがあります。
いずれにせよ、初孫と対面してからわずか3カ月後の別れでした。
同年12月には第54回日本レコード大賞の特別功労賞を、翌2013年には大衆音楽の殿堂入選を受けています。
育った茅ヶ崎の家と世田谷の自宅
尾崎紀世彦さんは1943年1月1日に東京都渋谷区で生まれ、小学生のころに神奈川県茅ヶ崎市へ移りました。
湘南の海のそばで育った少年時代を送っています。
一方、亡くなった時点で所有していた自宅は東京・世田谷区の一戸建てでした。
この家は遺産相続の対象となり、しばらく尾崎さん名義のまま残されていたと報じられています。
弟の征彦さんは一周忌の取材に対し「自宅は、もう誰も住めないね。荒れ放題になっていて間もなく取り壊して売却することになりそう」と語りました。
レコード大賞歌手の自宅が、誰も住まないまま朽ちていったという話です。
これは……さすがに切ないですよね。
また逢う日まででレコード大賞
最後に、尾崎紀世彦さんの代表曲についても触れておきます。
1971年に発表された「また逢う日まで」は100万枚を突破し、第13回日本レコード大賞の大賞と第2回日本歌謡大賞の大賞をダブル受賞しました。
同じ年の第22回NHK紅白歌合戦には白組のトップバッターとして初出場しています。
翌1972年も連続出場を果たし、1990年の第41回にも出場しました。
音楽キャリアの出発点は13歳で買ったウクレレで、17歳でセミプロとしてデビューしています。
ヒロ・ハワイアンズ、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ、ザ・ワンダースとバンドを渡り歩き、1970年8月25日に「別れの夜明け」でソロデビューしました。
ハワイアンから始まったキャリアの持ち主が、最後にハワイの家族に見送られたというのは、どこか出来すぎた話にも思えます。
1987年には「サマー・ラブ」がスマッシュヒットし、その後も歌い続けました。
尾崎紀世彦の娘のまとめ
- 尾崎紀世彦の娘は2人で、長女・良奈と次女がいる
- 子供は娘2人と息子1人の合計3人
- 長女・良奈と長男・紀世彦Jr.は1度目の妻ベティーとの子
- 次女は1991年に再婚した日本人女性との子
- 長女・良奈は1974年ごろ生まれでハワイ在住
- 良奈は2012年2月1日に双子の女児を出産している
- 尾崎紀世彦にとってその双子が初孫にあたる
- 闘病中の2012年2月下旬、約10日間ハワイで初孫と対面した
- 4月の再入院後、良奈は双子を連れて来日し病床に付き添った
- 良奈が日本を離れた翌日に尾崎紀世彦は亡くなった
- 次女は1993年ごろ生まれで、2012年時点で19歳と報じられた
- 次女の名前や職業、学校は公表されていない
- 2012年8月、2度目の妻が養育費と娘の遺産相続を求めたと報じられた
- 遺族側が説明した遺産総額は土地3000万円と預金1000万円で約4000万円とされる
- 公の場で父について語ったのは長女の良奈だけである


