70年代に吉永小百合2世と呼ばれ、中高生の男子から爆発的な人気を集めた栗田ひろみさん。
その栗田さんが、23歳の大晦日にすっぱりと芸能界を去っていたことをご存じでしょうか。
引退から40年以上が過ぎたいま、栗田さんがどこで何をしているのか。実は、引退の5年も前に本人が芸能界への違和感を口にしていたというから驚きですよね。
・栗田ひろみの現在の暮らしぶりと家族のこと
・23歳の大晦日に引退を決めた理由と、その5年前の伏線
・放課後や伊豆の踊り子など現役時代の代表作と歌手活動
栗田ひろみの現在は主婦として穏やかな日々
70年代を駆け抜けた栗田ひろみさんが、いまどこで何をしているのか。
ここでは引退後の暮らしぶりから、家族のこと、そして23歳で芸能界を去った理由まで、順番に見ていきますね。
芸能界とは連絡を絶ち主婦業に専念
栗田ひろみさんの現在は、ひとことで言えば「ごく普通の主婦」です。
1980年の大晦日で芸能活動を終えてから、テレビにも雑誌にも一切姿を見せていません。
驚くのは、そのあと40年以上にわたって芸能界の関係者とはまったく連絡をとっていないという点です。
引退した俳優さんでも、業界の友人と食事をしたり、記念のイベントに顔を出したりすることは珍しくありませんよね。
でも栗田さんの場合は、それすらしていないんです。
「あの人はいま」を追った現代ビジネスの特集記事に、栗田さん本人のコメントが載っています。
「今の私はとても平々凡々な毎日を過ごしていまして、そのことをとても幸せに思います」
「これからも穏やかな日々をと思っています」
この短い言葉に、全部が詰まっている気がします。
未練でも強がりでもなく、いまの生活そのものを幸せだと言い切っているんですよね。
……なんか、いいですよね。
かつて吉永小百合2世とまで呼ばれ、中高生の男子から爆発的な人気を集めた人が、その称号をきれいに置いてきた。
栗田ひろみさんの現在は、芸能界の記憶とは完全に切り離された、静かな家庭生活の中にあります。
都内一等地の一軒家で暮らす日々
暮らしている場所についても、断片的ながら情報があります。
前述の特集記事によれば、栗田さんは都内の一等地に建てた一軒家で生活しているとのこと。
具体的な地名までは明かされていませんが、一等地と表現されるエリアに持ち家を構えているわけですから、生活基盤はかなりしっかりしていると考えてよさそうです。
もともと栗田さんは東京都豊島区東池袋の出身で、豊島区立雑司谷中学校から東京成徳高等学校(現・東京成徳大学高等学校)へ進んでいます。
生まれも育ちも東京で、引退後もそのまま東京で暮らしている。
地方へ移住したり海外へ渡ったりといった劇的な変化はなく、生活の場所という意味では驚くほど地続きなんですよね。
芸能界から離れることと、住む場所を変えることは別。
その割り切りかたも、この人らしいなと感じます。
息子を育て数年前には初孫も誕生
家族構成についても、少しだけ分かっていることがあります。
結婚後、栗田さんは男の子を出産して主婦業に専念したと伝えられています。
さらに、数年前には初孫も誕生しているそうです。
23歳で引退したのが1980年ですから、そこから40年以上。
年齢の流れを考えれば、お孫さんがいるのはむしろ自然なことですよね。
ただ、お子さんの名前も、職業も、お孫さんの人数も、いっさい公表されていません。
ご家族は一般の方ですから、当然といえば当然です。
栗田さん自身が芸能界との接点を持たない以上、家族の情報が表に出てくる経路もありません。
分かっているのは息子がいて孫もいるという事実だけで、それ以上の詳細は本人と家族の中に留められています。
夫は工業用の油を扱う会社の社長
結婚相手についても見ていきましょう。
ここは情報源によって表現が少しずつ違うので、まとめて整理しておきますね。
| 情報源 | 夫についての記述 |
|---|---|
| Wikipedia | 石油会社に勤めるサラリーマン |
| 日刊ゲンダイ | 石油会社の社員。東京・三田の油脂会社社長を継ぐ長男 |
| 現代ビジネス | 工業用の油を販売する中堅企業の社長 |
一見バラバラに見えますが、時系列で並べると自然につながります。
結婚した1981年当時は会社員で、家業である油脂会社の跡取り。
その後、実際に会社を継いで社長になったという流れで読むと、3つの記述はきれいに一本の線になります。
共通しているのは油を扱う会社の家に生まれた長男だという点で、ここは複数のソースが一致していますね。
いずれにしても芸能関係者ではなく、完全な一般男性です。
栗田さんが芸能界の外に生活の軸を移したことが、結婚相手の顔ぶれからもよく分かります。
出会いは浅田美代子のバーベキュー
2人の出会いは、意外な人物がきっかけでした。
1974年の夏、栗田さんの親友だった浅田美代子さんが開いたバーベキューパーティー。
そこで初めて顔を合わせたそうです。
ところが初対面の印象がすごい。
日刊ゲンダイの記事によれば、相手は食べることに一生懸命で、栗田さんも話しかける勇気が出ず、ほとんど言葉を交わさないままお開きになったのだとか。
しかも、お互いに相手を意識していたのに、名前すら知らないまますれ違って終わったというんです。
……ここから結婚まで行くの、なかなかのドラマですよね。
その後、約2週間後に湘南の海へ誘われ、泳いだり食事をしたりするグループ交際に発展。
1978年ごろ、テニスをしたのをきっかけに、ようやく2人だけのデートをするようになりました。
出会いから4年です。
そして1980年6月ごろ、結婚を意識するように。
面白いのは、はっきりしたプロポーズの言葉はないままだったという点。
その一方で栗田さんは「外で会えばお金がかかるでしょ」と家でデートをするなど、すでにしっかり者の女房ぶりを発揮していたそうです。
結納は1981年1月17日、挙式は1982年6月8日にハワイで行われました。
トップアイドルだった人の恋愛としては、驚くほど地に足がついていますよね。
23歳の大晦日に引退を決めた理由
栗田ひろみさんが芸能界を去ったのは1980年の大晦日、23歳のときでした。
活動期間は1971年から1980年までのちょうど10年。
引き際の理由は、はっきりしています。
結婚の準備です。
日刊ゲンダイの記事には、結婚が決まったときに栗田さんが語った言葉が残されています。
「仕事と家庭は両立できません」
いまの時代の感覚だと少し驚くかもしれませんが、1980年当時としては珍しい選択ではありませんでした。
ただ栗田さんの場合、それを言い切ったタイミングが早すぎたんですよね。
23歳といえば、女優としてはこれから大人の役に移っていく時期です。
実際、引退の翌年である1981年公開の映画『子どものころ戦争があった』にも出演していますから、仕事がなくなったわけでは決してありません。
それでもすっぱりと辞めた。
東スポの記事は、この引き際を「70年代を疾走した特別的な存在の栗田にはふさわしい潔い引き際だった」と評しています。
干されたわけでも、スキャンダルで消えたわけでもなく、自分の意思で家庭を選んだ。それが栗田ひろみさんの引退の全部です。
17歳で語っていた芸能界への違和感
ただ、この決断は突然のものではなかったようです。
引退のじつに5年も前、栗田さんは自分の口で芸能界への違和感を語っています。
1975年3月4日付の東スポのインタビュー。
当時17歳だった栗田さんの言葉が、そのまま残っています。
「私が芸能界に住んでいるって不自然なカンジだったの。なじめなかったのね。何か妥協しなければいけないところがあるでしょう。ウソも方便みたいなところが嫌だったの」
17歳ですよ。
人気絶頂のアイドルが、業界のど真ん中でこれを言っている。
正直、読んでいて少しヒヤッとしました。
そしてこの発言が1975年で、実際に辞めたのが1980年。
違和感を口にしてから引退まで、5年の時間があったことになります。
つまり、結婚が引退の直接のきっかけではあっても、辞める理由そのものはもっと前から本人の中にあった可能性が高い。
そう考えると、23歳でアッサリ引退という見え方も、少し違ってきますよね。
篠山紀信の撮影で写真誌の表紙を飾った1974年
芸能界への違和感を語る前年、栗田さんはグラビアの世界でも大きな話題になっています。
1974年10月、週刊プレイボーイ特別編集の大判写真誌『プレイガール』の表紙を、篠山紀信さん撮影のヌードで飾りました。
篠山さんのモデルとして目にとまったことが、脚光を浴びるきっかけのひとつでもあったと伝えられています。
当時16歳から17歳。
翌年のインタビューで妥協しなければいけないところがあると語った背景に、この時期の経験がどう影響していたのか。
そこは本人が明かしていないので推測にとどまりますが、時系列としては非常に近い場所にある出来事です。
栗田ひろみの現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、栗田ひろみさんの現役時代について。
そもそもどんな人だったのかという部分を、代表作から歌手活動まで一気に見ていきますね。
若い頃は吉永小百合2世と呼ばれた
栗田ひろみさんは1957年9月2日生まれ、本名は栗田裕美(読み同じ)さんです。
芸能界入りのきっかけが、これまた偶然でした。
豊島区立雑司谷中学校1年生の夏休み、赤坂のTBSホールへ公開番組『ハット・ピンキー!』を見に行ったところ、その場でスカウトされたんです。
客席に座っていただけの中学1年生が、そのまま芸能界へ。
そこからCM出演でデビューし、1972年には大島渚監督の映画『夏の妹』で主役に抜擢されます。
15歳を迎える年での主演デビューです。
翌1973年には映画『放課後』『ときめき』、テレビドラマ『伊豆の踊り子』に主演して人気が沸騰しました。
少し翳りのある優等生のイメージで多くのCMに出演し、当時のメディアからは吉永小百合2世と呼ばれるほどの期待を背負っていました。
中高生の男子から爆発的な支持を集めた、まさに70年代を代表する美少女スターです。
森永製菓の小枝で初代CMキャラクターに
デビュー直後の仕事のなかで、いまも語り継がれているのが森永製菓のチョコレート菓子「小枝」のCMです。
栗田さんは1971年から、この商品の初代CMイメージキャラクターを務めました。
小森のオバチャマとして知られる小森和子さんが声で出演していたことでも知られる、当時の人気CMです。
ロングセラー商品の顔として最初に立ったのが栗田さんだったというのは、なかなか感慨深いものがありますよね。
ほかに花王のオイル・シャンプーやブラウンヘアー・トリマーのCMにも出演しています。
映画『放課後』で演じた女子高生
代表作を1本挙げるなら、間違いなく1973年の映画『放課後』でしょう。
1973年3月3日公開、東宝映画の製作・配給によるカラー作品で、上映時間は89分。
森谷司郎監督による東宝青春路線の一編です。
栗田さんが演じたのは、主人公の女子高生・中西亜矢子。
放課後の街に出た亜矢子が、カメラのファインダー越しに、ある男性とスナックの女性の関係を知ってしまうところから物語が動きだします。
そのささやかな悪戯が、思わぬ波紋を広げていくという筋書きです。
大人の世界を垣間見た少女の揺れる心と、無垢ゆえの残酷さを描いた作品で、栗田さんの透明感がそのまま役柄に重なった一本といえます。
共演は地井武男さん、宮本信子さん、宇都宮雅代さん、篠ヒロコさん。
いまも伝説のアイドル映画として名前が挙がる作品です。
2006年のDVD化で地井武男と再会
引退後の栗田さんが、ただ一度だけ表舞台に近い場所へ戻った出来事があります。
2006年、『放課後』がDVD化された際のオーディオコメンタリーです。
共演した地井武男さんとともに参加し、撮影当時の思い出話に花を咲かせたと伝えられています。
引退から26年後のことでした。
芸能界の関係者とは連絡をとっていないと語る栗田さんですが、この作品にだけは特別な思いがあったのかもしれません。
……ちょっとじんわりしますよね、これ。
出演映画は生涯で8本だけ
栗田さんが映画に出たのは、活動期間10年でわずか8本です。
| 公開年 | 作品名 | 役名 |
|---|---|---|
| 1972年 | 夏の妹 | ― |
| 1973年 | 放課後 | 中西亜矢子 |
| 1973年 | ときめき | 南美川杏子 |
| 1974年 | 街の灯 | 欅ヒロミ |
| 1974年 | 樺太1945年夏 氷雪の門 | 菅原美保子 |
| 1978年 | 沖縄10年戦争 | 大城恵子 |
| 1979年 | 地獄 | 生形久美 |
| 1981年 | 子どものころ戦争があった | 千恵子 |
並べてみると、1974年から1978年までの4年間、映画の出演がぽっかり空いているのが分かります。
この時期は時代劇を中心にテレビへ軸足を移していて、キャリアの重心がはっきり動いているんですよね。
最後の『子どものころ戦争があった』は引退を表明した翌年の公開で、これが女優としての最終作になりました。
ドラマ『伊豆の踊り子』で人気沸騰
映画と並んで栗田さんの名前を広めたのが、1973年に関西テレビ(KTV)で放送されたテレビドラマ『伊豆の踊り子』です。
川端康成の名作を原作としたこの作品で、栗田さんは主演を務めました。
ここで注意しておきたいのが、作品の混同です。
1974年公開の映画『伊豆の踊子』は山口百恵さん主演の別作品で、栗田さんが主演したのは前年1973年のテレビドラマ版になります。
検索すると両方が出てくるので、混ざりやすいんですよね。
同じ1973年には日本テレビの『さよなら・今日は』、TBSの『お姉ちゃん』にも出演しており、この年が人気のピークだったことが出演歴からもはっきり分かります。
その後は時代劇での活躍が目立つようになり、『太陽にほえろ!』『新・座頭市』『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『必殺シリーズ』など、70年代後半の主要ドラマにゲスト出演を重ねました。
1979年にはNHKのラジオドラマ『三人家族』に出演し、この作品は第34回芸術祭賞ドラマ部門優秀賞を受賞しています。
井上陽水が書いたいつのまにか少女は
栗田ひろみさんを語るうえで外せないのが、井上陽水さんとの接点です。
1973年、井上陽水さんは映画『放課後』のために1曲を書き下ろしました。
それが「いつのまにか少女は」です。
この曲、主演の栗田ひろみさんを念頭に置いて作詞・作曲されたと伝えられています。
陽水さん自身が歌い、映画の挿入歌として使われました。
同じ年の3月に発売されたシングル「夢の中へ」のB面に収録されており、編曲は星勝さん。
2004年には持田香織さんが井上陽水さんプロデュースでカバーし、シングルとしてリリースもされています。
篠山紀信さんが撮り、大島渚監督が主役に抜擢し、井上陽水さんが曲を書いた。
当時の一線級のクリエイターたちが、そろって10代の栗田ひろみさんに惹きつけられていたことが分かります。
歌手デビュー曲は太陽のくちづけ
女優としてだけでなく、栗田さんは歌手活動も行っていました。
レコード会社はワーナー・パイオニア。
デビューシングルは1973年2月10日発売の「太陽のくちづけ」です。
作詞は山口あかりさん、作曲は森田公一さん、編曲は馬飼野俊一さん。
当時の歌謡曲の第一線が並んだ布陣ですね。
シングルは全部で3枚リリースされています。
| 発売日 | タイトル | 作詞 | 作曲 |
|---|---|---|---|
| 1973年2月10日 | 太陽のくちづけ | 山口あかり | 森田公一 |
| 1973年7月10日 | 初恋の散歩道 | 安井かずみ | 森田公一 |
| 1974年1月25日 | 愛の奏鳴曲 | なかにし礼 | 川口真 |
アルバムも1枚出ていて、1973年5月10日発売の『太陽と海とオレンジ』。
南沙織さんの「17才」、天地真理さんの「水色の恋」、黛ジュンさんの「天使の誘惑」といった当時のヒット曲のカバーに加え、栗田さん自身が朗読詩を担当した「ママに捧げる詩」なども収録されていました。
1997年にはCD版もリリースされています。
今何歳?1957年生まれの年齢
最後に年齢を整理しておきましょう。
栗田ひろみさんの生年月日は1957年9月2日。
つまり2026年9月2日の誕生日を迎えて、現在は69歳です。
デビューが中学1年、引退が23歳ですから、芸能人だった期間よりも、一般人として過ごした時間のほうがはるかに長いことになります。
活動期間10年に対して、引退後は45年以上。
あの人はいまと検索されるたびに70年代の姿が呼び出される一方で、ご本人の人生の大部分は、平々凡々と語られたあの日常の側にあるわけですね。
栗田ひろみの現在のまとめ
- 栗田ひろみは1980年の大晦日で芸能界を引退し、現在は主婦として暮らしている
- 現在は芸能界の関係者とまったく連絡をとっていないとされる
- 住まいは都内の一等地に建てた一軒家と伝えられる
- 本人は平々凡々な毎日を過ごしていてそのことをとても幸せに思うとコメントしている
- 結婚は引退翌年の1981年で、相手は芸能関係者ではない一般男性
- 夫は油脂会社を継いだ長男で、工業用の油を販売する中堅企業の社長とされる
- 出会いは1974年夏、親友の浅田美代子が開いたバーベキューパーティー
- 1978年ごろにテニスをきっかけとして2人だけのデートが始まったとされる
- 結納は1981年1月17日、挙式は1982年6月8日にハワイで行われたと報じられている
- 男の子を出産して主婦業に専念し、数年前には初孫も誕生したとされる
- 引退の理由は結婚準備で、仕事と家庭は両立できませんと語ったと伝えられる
- 17歳だった1975年のインタビューで、すでに芸能界への違和感を口にしていた
- 本名は栗田裕美、1957年9月2日生まれの東京都豊島区東池袋出身で現在69歳
- 代表作は映画『放課後』とテレビドラマ『伊豆の踊り子』で、いずれも1973年
- 映画『放課後』の挿入歌いつのまにか少女はは、井上陽水が栗田を念頭に書いたとされる


