映画監督でありBialystocksのボーカルでもある甫木元空さん。その表現のルーツをたどっていくと、必ず父親の存在にたどり着きます。
甫木元空さんの父親は舞台演出家でしたが、家では仕事の話を一切しない人だったといいます。
そんな父親が、息子が生まれた頃からほぼ毎日ホームビデオを回し続けていたと知ったら、ちょっと驚きませんか。
・甫木元空さんの父親の職業と、公表されている情報の範囲
・父親と死別した時期と、その年に起きたもうひとつの出来事
・父が遺したホームビデオが、卒業制作や個展にどう使われたか
甫木元空の父親は舞台演出家だった
甫木元空さんの父親がどんな人だったのか、まずはここから見ていきましょう。
職業から死別の時期、そして今の作品に残る「父の痕跡」まで、本人が語ってきた言葉を軸に整理していきますね。
父親の職業は舞台の演出家
甫木元空さんの父親の職業について、本人はインタビューではっきり語っています。
父親は舞台の演出家、母親はピアノの先生という家庭でした。
音楽ナタリーのインタビューで、甫木元さんは「父親は舞台の演出家、母親がピアノの先生をしながら街の合唱団をやったりしていました」と話しています。
この組み合わせ、なかなかすごいですよね。
Wikipediaの記載も、地元である埼玉県越生町の公式ホームページの紹介文も、そろって「舞台演出家の父親とピアノ講師の母親のもと」と書いています。
複数の情報源が一致しているので、ここは確定情報と見ていいところです。
甫木元さん本人も「両親がそういう活動をしていたので、物作りに対するハードルは幼い頃から低かったのかな」と振り返っています。
家に帰れば舞台の話と音楽の話がある、という環境だったわけですね。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 父親の職業 | 舞台演出家 |
| 母親の職業 | ピアノ講師(街の合唱団の活動も) |
| 実名 | 公表なし |
| 年齢・生年 | 公表なし |
| 現在 | 甫木元さんの大学在学中に死別 |
つまり甫木元空さんは、表現の現場が日常にある家で育った人ということになります。
映画監督とミュージシャンという二足のわらじも、こう見ると突然出てきたものではないんですよね。
父が演出していたのは『悪魔の飽食』のミュージカル
父親が具体的にどんな舞台を手がけていたのか、本人の証言からひとつだけ分かっているものがあります。
甫木元さんが中学1年のときに同行した公演は、森村誠一さんの小説『悪魔の飽食』をミュージカル化した舞台でした。
第二次世界大戦中の中国大陸での出来事を告発した、かなり重いテーマの作品です。
その舞台を、中国で上演していたというんですから、規模も内容も相当なものだったと想像がつきます。
父親の実名や年齢は公表されていない
ここは気になる人が多いところだと思うので、はっきり書いておきますね。
甫木元空さんの父親の実名・生年・顔写真は、いずれも公表されていません。
Wikipedia、音楽ナタリー、装苑ONLINE、越生町の公式ページ、どれを見ても「舞台演出家の父」という職業の記載までで、名前は出てきません。
甫木元さん自身も、インタビューでは一貫して「父」「父親」と呼ぶだけで、固有名詞は出していないんです。
これは意図的なものだと考えるのが自然でしょう。
作品や展覧会で父の遺した映像を公開するところまで踏み込んでいる人が、名前だけ伏せている。
裏を返せば、「表現者としての父」は語るけれど「個人としての父」は守るという線引きをしているのかなと思います。
なお、甫木元さんは名字の「甫木元」について「母方の名字」だと明かしています。
ということは父親の姓は別だった可能性もありますが、そこまでは語られていないので、断定はできません。
中学1年で父の中国公演に同行した日
甫木元空さんが「物作りの原体験」として何度も挙げているのが、このエピソードです。
中学に上がった頃、父親が演出する舞台の中国公演に、スタッフとして同行しました。
普通なら反抗期が来る時期に、父親の仕事場についていったわけです。
そこで甫木元さんが見たのは、大人たちが本気でぶつかり合う現場でした。
「照明がちょっとズレてるだけで『何やってんだよ!』とか言い合いになったりする」と本人が語っています。
傍から見れば「どうでもいいじゃん」と思えるようなことに、大人が全力で向き合っている。
……これ、中学1年で目撃したらそりゃ衝撃ですよね。
甫木元さんはこの公演で、きっかけに合わせてマイクの音量を上げるという役割をひとつ任されています。
「すごく緊張したのを今でも覚えています」とのこと。
作品を観て憧れたのではなく、作られていく裏側から表現の世界に入っていったのが甫木元さんの出発点なんです。
同級生とは共有できない体験だったとも語っていて、そこもなんだかリアルだなと思いました。
大学3年のときに父親と死別している
甫木元空さんは多摩美術大学の造形表現学部映像演劇学科に進みますが、その在学中に父親を亡くしています。
本人が語っているのは「大学3年生のときに父親が亡くなった」という時期です。
Wikipediaにも「在学中に父と死別」と記載があり、複数の情報源で一致しています。
ただし、亡くなった年月日や死因については、どの媒体にも記載がありません。
ここは公表されていない部分ですね。
そして時期の話をすると、少し不思議な符合があります。
甫木元さんの恩師となる映画監督・青山真治さんが多摩美に講師として来たのが、甫木元さんの3〜4年生のとき。
Mikikiのコラムで甫木元さんは「父が死んだ年に、青山真治監督とは多摩美術大学の先生と生徒という関係で知り合った」と書いています。
父を失った年に、その後の人生を決める師と出会っているわけです。
偶然と言ってしまえばそれまでですが、時系列を並べると、この一年が甫木元さんにとって決定的な年だったことが見えてきます。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1992年2月9日 | 埼玉県で誕生 |
| 中学1年頃 | 父の演出する舞台の中国公演にスタッフとして同行 |
| 多摩美3年時 | 父親と死別。同じ年に青山真治と出会う |
| 2014年 | 卒業制作『終わりのない歌』を発表 |
| 2016年 | 長編映画『はるねこ』で監督デビュー |
父が遺したホームビデオが創作の原点
ここが、甫木元空さんと父親の関係を語るうえで一番大きな部分かもしれません。
父親は、甫木元さんが生まれるときから幼稚園に上がる前まで、ほぼ毎日ホームビデオを撮り続けていました。
「ほぼ毎日」ですよ。
それが家にたくさん残っていた、というんです。
甫木元さんは大学3年で父を亡くしたあと、この映像を再編集して卒業制作『終わりのない歌』(2014年)を作りました。
再編集した映像の最後に、今の自分が出てきて弾き語りを1曲する。
演劇と映画を混ぜたような作品だったと語られています。
父が撮った過去の自分と、父を失った現在の自分が、1本の作品の中で出会う構成だったわけですね。
なんというか、聞いているだけで胸に来るものがあります。
撮影が始まったのは生まれる2ヶ月前の1991年
映像の始まりは、甫木元さんが生まれるより前でした。
madameFIGARO.jpのインタビューによると、父親は1991年、甫木元さんが生まれる2ヶ月前に新しいビデオカメラを購入して撮影を始めています。
そこに写っているのは、出産間近の母親の姿。
両親がカメラを取り合って遊んでいる場面。
そして、生まれてくる子どもの名前について延々と語り合う夫婦の会話。
甫木元さんはこの映像を「父はラブストーリーとして記録していた」と受け止めたと語っています。
自分が生まれる前の、両親ふたりだけの時間。
……こんな記録が残っている人、そう多くないですよね。
「あまりにも生々しくて使えなかった」映像
面白いのは、この1991年の映像が『終わりのない歌』には使われなかったことです。
甫木元さんは「誰も入り込めない聖域がそこに写っている。だから『終わりのない歌』の時はあまりにも生々しくて使えなかった」と語っています。
その映像がようやく使われたのが、2023年の個展でした。
『窓外 1991-2021』というタイトルのとおり、父が撮り始めた1991年から、母を看取った2021年までが射程に入っています。
このインスタレーションのBGMには、父親がレコードで流していたラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が使われました。
さらに甫木元さんは、映像を見返すうちに「父が編集点を考えながら写していることに気づいた」とも話しています。
ただの家族の記録ではなく、演出家の目で撮られていた。
父親は映像作家として何かを残したわけではないけれど、その撮り方そのものが息子に受け継がれているということになります。
家で仕事の話をしなかった父親の素顔
甫木元空さんが語る父親像で、個人的に一番印象に残ったのがこの話です。
装苑ONLINEのインタビューで、甫木元さんは「父は舞台の演出家でしたが、家の中で仕事の話を全くしない人だった」と語っています。
さらに続けて、こうも言っています。
「僕にとって平日はずっと家に居て、土日だけいなくなる謎の人だった」
謎の人、ですよ。
演出家という仕事の性質上、稽古や公演は土日に集中する。
だから息子から見ると、平日は家にいて土日だけ消える不思議な大人に見えていたわけです。
なんだかちょっと笑ってしまう表現ですが、同時に距離感も伝わってきますよね。
会話が生まれたのは、病院の送り迎えを始めてから
父と子の関係が変わったのは、父親の晩年でした。
甫木元さんは「晩年、病院の送り迎えを自分がやるようになって、ようやく会話を経て、何をしているのかを知る」と語っています。
父親が何者だったのかを知り始めたのが、失う直前だったということです。
正直、これは読んでいて胸が痛くなりました。
しかも、父親の全体像が見えてきたのは亡くなったあとでした。
「亡くなった後、父のミュージカルに関わってくれていた人たちから、今の自分と同じようなことに興味を持っていたことを聞きました」と本人が明かしています。
同じことに興味を持っていた、と他人から教えられる。
会話でではなく、遺された人づてに父を知る。
甫木元さんが自分の家族をモチーフに作品を作り続けている理由の一端が、ここにある気がします。
「そんなことも知らないのか」と言われた大学時代
もう少し軽いエピソードもあります。
多摩美に入学した甫木元さんは、周りの学生が「ゴダールが〜」と話しているのを聞いて「誰?」となったそうです。
それを父親に話したら、返ってきた言葉が「そんなことも知らないのか」。
家では仕事の話をしないのに、こういうところではしっかり演出家の顔が出るんですね。
ちなみに多摩美の入試は「旅」がテーマという変わったもので、甫木元さんは父親の知り合いが住んでいるという理由で屋久島を選んでいます。
ところが行ってみたら「全然知り合いじゃなかった」というオチ付き。
結局マンゴー農園に住み込みで働いて、そこで撮った写真を送って合格しました。
……この一件、父親の人柄がなんとなくにじみ出ていて、個人的にすごく好きなエピソードです。
甫木元空の父親を調べる人向けの関連情報
ここからは、父親について調べている人が続けて気になりやすいポイントをまとめていきます。
母親や兄弟のこと、珍しい名字の由来、そして今の暮らしまで一気に見ていきましょう。
母親はピアノ講師で合唱団の活動もしていた
父親と並んで語られることが多いのが母親です。
母親はピアノ講師をしながら、街の合唱団の活動もしていました。
それだけでなく、宮沢賢治の朗読に自分で書いた曲を付けたりもしていたそうです。
朗読劇を行う劇団にも所属していて、「おやこ劇場」という子ども向けの取り組みによく招かれていたといいます。
幼い甫木元さんはそこについていって、舞台装置に必要なケーブルをさばいたりしていたとのこと。
小学校に上がる前から舞台の裏方をやっていたわけですね。
なお、母親は2017年に余命宣告を受け、2021年に亡くなっています。
甫木元さんは大学在学中に父を、2021年に母を見送っており、両親ともにすでに他界していることになります。
映画『はだかのゆめ』(2022年)は、この母との時間をもとに作られた作品です。
弟との日常を撮った卒業制作『終わりのない歌』
甫木元空さんには弟がいます。
卒業制作『終わりのない歌』(2014年)は、父が遺したホームビデオの映像と、弟との日常のシーンを組み合わせた半ドキュメンタリー作品として紹介されています。
弟さんは一般の方なので、名前や職業などは公表されていません。
ただ、父を亡くしたあとの卒業制作に弟と過ごす日常を選んでいるあたり、家族を撮ることが甫木元さんにとってどれだけ自然な行為なのかが伝わってきます。
この作品を観た青山真治さんが「とりあえずCDと脚本を持ってこい」と声をかけ、そこから長編デビューにつながっていきました。
父の映像と弟の日常で作った1本が、映画監督・甫木元空のスタート地点だったということですね。
名字「甫木元」は母方の姓
「甫木元」って、初見だとまず読めないですよね。
ホキモトソラと読みます。
甫木元さんによると、この名字は母方のもので、高知と和歌山あたりに多いそうです。
黒潮海流沿いに多い名字らしい、とも語っています。
全国でも数十人規模という、かなりのレア名字なんだとか。
本人いわく「ウラキゲンクウ」と読まれたこともあるそうで、そこは笑ってしまいました。
そして、この母方の名字が高知に多いという話は、後述する四万十町への移住ともつながってきます。
高知県四万十町の集落の奥には、江戸時代から続く甫木元家の墓があり、祖父がずっとその墓守をしていたそうです。
出身は埼玉県で越生町育ち
甫木元空さんは1992年2月9日、埼玉県生まれです。
越生町の公式ホームページによると、小学生から大学卒業後まで、埼玉県越生町で過ごしています。
現在も時折越生町を訪れて友人と交流しているそうで、町役場には小・中学校時代の同級生が4人勤務しているとのこと。
町側も「越生町出身『甫木元 空』を応援しています!」というページを公式に用意していて、職員によるシティプロモーションのチームがプロモーション動画まで作っています。
地元が全面的に応援している出身者という立ち位置なんですね。
ちなみに監督デビュー作『はるねこ』(2016年)は、この越生町を舞台に撮影されています。
高校から多摩美術大学へ進んだ経緯
学歴についても触れておきますね。
高校の校名は公表されていませんが、甫木元さん本人は「通っていた高校は美大向きとかではなく、普通の大学に進学するのが当たり前みたいな感じでした」と語っています。
学校からも「普通の大学に進学したほうがいいんじゃないか」と言われていたそうです。
進学先は多摩美術大学 造形表現学部 映像演劇学科。
選んだ理由は「その中で何か見つけられそうだな」という感覚だったといいます。
この学科がまた独特で、映像作家で詩人の鈴木志郎康さんが立ち上げた学科ということもあり、撮影・録音・照明・演技といった区分けがなく全員が全部やるのが当たり前だったそうです。
入学して初めて映画や舞台をちゃんと観るようになった、とも語っています。
恩師・青山真治との出会いが転機に
甫木元空さんを語るうえで欠かせないのが、映画監督・青山真治さんの存在です。
出会いは多摩美での講師と学生という関係でした。
青山さんは最初のゼミのプレゼンで「映画を教えることに僕は懐疑的です」と言い放ったそうで、それを聞いた甫木元さんは「この人の講義は面白そうだな」と思ったといいます。
青山さんは甫木元さんに「脚本できたら持ってこい。俺がプロデュースする」と約束し、それが2016年の長編デビュー作『はるねこ』として実現しました。
同作はロッテルダム国際映画祭にも選出されています。
青山さんは2022年に亡くなりましたが、甫木元さんは2025年、青山さんが残した企画を引き継ぐ形で脚本・監督を務めた映画『BAUS 映画から船出した映画館』を公開しました。
同作で第39回高崎映画祭の新進監督グランプリを受賞しています。
父を亡くした年に出会った師の遺した仕事を、10年以上たって引き継いだという流れになるわけです。
2017年に高知県四万十町へ移住している
現在の甫木元空さんは、高知県四万十町を拠点にしています。
移住は2017年、祖父と母が住む四万十町へという形でした。
母親が余命宣告を受けたのと同じ年です。
甫木元さんは幼少期から夏休みや冬休みに母方の実家である高知を訪れていて、「いずれ自分も最終的にここに来なければいけないんじゃないかという思いが小さい頃からなんとなくありました」と語っています。
移住した当初は、祖父から話を聞きながら年表や家系図を作っていたそうです。
2017年から母を看取った2021年までの家族との日常は、スマートフォンやフィルムカメラで記録され続けました。
その記録が映画『はだかのゆめ』や個展『窓外 1991-2021』の素材になっています。
父のホームビデオから始まった「家族を記録する」という行為を、今度は自分が引き継いでいる構図なんですよね。
……なんか、じんわりしませんか。
甫木元空の父親のまとめ
- 甫木元空の父親の職業は舞台演出家
- 母親はピアノ講師で、街の合唱団や朗読劇の活動もしていた
- 父親の実名・生年・顔写真はいずれも公表されていない
- 死因や没年月日も公表されていない
- 甫木元空が多摩美術大学3年のときに父親と死別している
- 父が死んだ年に、恩師となる青山真治と出会っている
- 中学1年で父が演出する舞台の中国公演にスタッフとして同行した
- その演目は森村誠一の小説『悪魔の飽食』をミュージカル化した舞台
- 父は生まれる前から幼稚園に上がる前まで、ほぼ毎日ホームビデオを撮っていた
- 撮影が始まったのは1992年生まれの甫木元空が生まれる2ヶ月前、1991年
- そのホームビデオを再編集した卒業制作が『終わりのない歌』(2014年)
- 父は家で仕事の話を全くせず「平日は家にいて土日だけいなくなる謎の人」だったと語られる
- 父が何をしていたかを知ったのは、晩年の病院の送り迎えがきっかけ
- 母親は2017年に余命宣告を受け、2021年に他界している
- 「甫木元」は母方の名字で、高知や和歌山に多いレア姓とされる


