日本初の警備会社セコムをつくった飯田亮さん。
その息子について調べても、名前も肩書もほとんど出てこないんですよね。
実は、セコムの社長になったのは息子さんではなく娘婿だったというから、驚きですよね。
・セコムの飯田亮の息子について公表されている情報の中身
・息子の名前がセコムの経営に出てこない理由
・息子ではなく娘婿の尾関一郎が社長になった経緯と、2024年の社長交代
セコム創業者・飯田亮の息子と家族の実像
日本初の警備会社をつくった飯田亮さんに、息子はいたのか。
ここから、公表されている範囲で分かっていることを順番に整理していきますね。
息子は長男・剛一とされている
まず結論から書きます。
飯田亮さんには長男・飯田剛一さん(1960年生まれ)がいるとされています。
ただし、この情報が載っているのは家系図を専門に扱うサイトなど限られた媒体で、新聞や経済誌の記事で名前が挙がることはほとんどありません。
セコムの有価証券報告書に役員として名前が出るわけでもなく、公の場に出てきた記録も見当たらないんですよね。
つまり息子さんは存在するとされているものの、経営者や公人としての活動は確認できない、というのが実際のところです。
ここ、少し肩透かしに感じるかもしれません。
でも創業者一族といっても全員が表に出るわけではないので、むしろ自然なことかなと思います。
出典が限られる情報である点は押さえておきたい
長男の名前と生年に触れているのは、系譜をまとめている専門サイトが中心です。
複数の大手メディアが揃って報じているタイプの情報ではないため、断定はできません。
この記事でも「そう記録されている」という書き方にとどめています。
息子の情報がほとんど出てこない理由
検索しても息子さんの話が出てこないのは、単に情報が消されているからではありません。
飯田亮さん自身がセコムの経営を親族に引き継がせる形を取らなかったことが大きいと考えられます。
セコムでは、飯田亮さんが1976年に会長へ退いたあと、社長の座が何度も交代しています。
40年ほどの間に10人が社長を務めたと報じられており、創業者の子どもが順番待ちをするような構図にはなっていません。
同族経営の会社であれば、息子が若いうちから役員に入り、名前も肩書も外に出ていきます。
セコムはそうならなかった。
だから息子さんの情報が出てこないこと自体が、この会社の後継の形を映しているとも言えるんです。
なお、家族が一般の生活を送っている場合、その人の勤務先や住まいといった情報は本人が公表していない限り扱うべきではありません。
この記事でも、公表されている範囲を超える踏み込みはしていません。
長女まみの夫がセコム社長・尾関一郎
息子さんの情報が薄い一方で、名前がはっきり出ているのが娘婿です。
飯田亮さんの長女は飯田まみさんとされ、その夫が尾関一郎さんです。
尾関さんは2019年から2024年までセコムの代表取締役社長を務めました。
血のつながりでいえば息子ではありませんが、実質的に創業家から経営の中枢に入った人物ということになります。
「息子は?」と検索した人が最終的にたどり着くのも、たいていこの尾関さんの名前なんですよね。
創業家の後継として表舞台に立ったのは、実子ではなく娘婿だったわけです。
娘婿・尾関一郎の経歴と社長就任
尾関一郎さんの経歴は、セコム一筋というタイプではありません。
外の世界を長く歩いてから、グループに入っています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1961年3月1日 | 誕生 |
| 1983年 | 学習院大学経済学部を卒業、住友銀行へ入行 |
| 1992年 | 東京製鐵へ移る |
| 2001年 | セコム損害保険へ入社、同年に取締役 |
| 2004年 | セコム損害保険 常務取締役 |
| 2008年 | セコム損害保険 取締役副社長 |
| 2010年 | セコム損害保険 代表取締役社長 |
| 2015年 | セコム本体の執行役員 |
| 2016年 | セコム取締役 |
| 2017年 | セコム常務取締役 |
| 2019年 | セコム代表取締役社長 |
| 2024年 | セコム顧問 |
銀行、鉄鋼メーカー、保険会社と渡り歩いてから本体の社長へ、という道筋です。
セコム本体に移ってから社長になるまでは、およそ4年。
グループ入りしてからは18年かかっている計算になりますが、本体での昇進はかなり速いんですよ。
義父が学習院大学の出身で、尾関さんも学習院大学の出身という共通点もあります。
2016年の解任劇で娘婿が後継候補に
尾関さんの名前が経済メディアで一気に知られたのは、2016年の人事でした。
2016年5月11日、セコムは会長・前田修司さんと社長・伊藤博さんを同時に解任します。
当時のセコムは4期連続で最高益を更新していて、業績は絶好調でした。
好調なのにトップ二人が同時に外れる。
週刊誌が「前代未聞」と書いたのも無理はありません。
そして同じ人事で、新任の取締役候補に尾関一郎さんの名前が入りました。
セコム損害保険の社長から執行役員を経て、本体の取締役へ。
この時点で将来のトップ候補と受け止められ、実際に3年後の2019年に社長へ就いています。
解任劇の裏で、創業家につながる人物が後継のラインに乗ったという見方が広がったのは、この流れがあったからです。
なお、この人事をめぐっては創業者の資産管理に関する報道と結び付ける論調も一部にありましたが、疑惑の域を出ない話も混じっているため、この記事では立ち入りません。
2024年に社長を継いだのは創業家以外
では、尾関さんの次はどうなったのか。
ここが個人的にいちばん興味深いところでした。
2024年4月1日付で、セコムの社長には吉田保幸さんが就任しています。
尾関さんは社長を退き、顧問となりました。
つまり創業家とつながる人物から、そうでない社内出身者へバトンが渡ったことになります。
息子が継ぐ、孫が継ぐ、という展開にはなっていません。
創業者の一族が経営を握り続ける会社ではない、というのが今のセコムの姿です。
飯田亮さんが繰り返し語っていた「破壊と創造」という言葉を思い出すと、なんだか腑に落ちる気もします。
自分がつくった仕組みすら平気で捨てる人でしたから。
父・紋治郎から受けた教えを原点と語る
息子の話が薄い分、飯田亮さんが「父から受けた側」のエピソードは残っています。
幼いころ、駅のホームで疲れてしゃがみ込んでいたとき、父の紋治郎さんに「男の子ならシャキっとしろ」と活を入れられたそうです。
飯田亮さんはこの体験を、のちに自分の仕事の原点だったと語っています。
ホームでしゃがんだ子どもへの一言が、日本初の警備会社をつくる人物の芯になった。
……なんか、いいですよね。
叱られた記憶を恨みではなく原点として持ち続けたところに、この人の性格が出ている気がします。
親から子へ渡したのは会社ではなく、こうした姿勢のほうだったのかもしれません。
セコムの飯田亮の息子を調べる人向けの関連情報
ここからは、飯田亮さんの息子と一緒によく調べられている話題をまとめます。
兄弟や実家、創業の経緯まで見ておくと、家族像がぐっとつかみやすくなりますよ。
セコム創業者の兄弟4人はいずれも経営者
飯田亮さんの家族で最も驚かれるのが、兄弟の顔ぶれです。
飯田亮さんは酒問屋を営む飯田紋治郎さんの子で、5人兄弟の末っ子とされています。
そして兄3人が、それぞれ別の会社を率いた経営者なんです。
| 名前 | 生年 | 関わった会社 |
|---|---|---|
| 飯田博 | 1924年 | 岡永(家業の酒類問屋を継承) |
| 飯田保 | 1926年 | テンアライド(居酒屋「天狗」チェーンを創業) |
| 飯田勧 | 1928年 | オーケー(首都圏の食品スーパーを創業) |
| 飯田亮 | 1933年 | セコム(日本初の警備会社を創業) |
家業を継いだのは長男だけで、あとの兄弟はそれぞれ独立しています。
酒問屋、居酒屋チェーン、食品スーパー、警備会社。
同じ家から、業種のまったく違う会社が4つ出ているわけです。
これは正直、びっくりしませんか。
なお、テンアライドの社長を務めた飯田永太さんは飯田保さんの息子で、飯田亮さんから見れば甥にあたります。
飯田家は「継がせる家」ではなく「起業する家」だったという見方ができそうです。
何男かは資料によって食い違う
細かい点ですが、飯田亮さんが紋治郎さんの何番目の子かは資料で割れています。
ウィキペディアや経済メディアは「五男」、家系図サイトは「六男」としています。
兄弟の人数の数え方が資料ごとに異なるためで、ここは断定を避けておきます。
実家は日本橋の酒問屋・岡永
飯田家のルーツは東京・日本橋です。
実家は老舗の酒問屋「岡永商店」(現・岡永)で、紋治郎さんは3代目にあたります。
飯田亮さんは1956年に学習院大学政経学部経済学科を卒業したあと、いったんこの家業に入りました。
つまり社会人としてのスタートは、警備ではなく酒屋だったんですね。
ただ、そこに長くとどまる人ではありませんでした。
家業は長兄の博さんが継ぎ、飯田亮さん自身は6年ほどで自分の道へ進みます。
学生時代は神奈川県立湘南中学に通い、石原慎太郎さんや江藤淳さんと同期だったと伝えられています。
共同創業者・戸田壽一との出会い
セコムは飯田亮さんひとりの会社ではありません。
学生時代からの友人だった戸田壽一さんとの共同創業です。
二人は学習院大学時代からの付き合いで、戸田さんは野球部、飯田亮さんはアメリカンフットボール部に所属していたと伝えられています。
酒を飲みながら独立の話をする仲だったそうですよ。
きっかけは1961年の冬。
浅草の鳥鍋屋で、二人と欧州帰りの知人が食事をしていたときのことです。
その知人が「欧州には警備を仕事にする会社がある」と話したことで、二人は日本にまだない商売だと気づきます。
そして翌1962年7月7日、日本警備保障株式会社を設立しました。
当時の飯田亮さんは29歳です。
「水と安全はただ」と言われていた時代に、安全を売る会社を始めたわけですから、相当な賭けだったと思います。
その2年後の1964年、東京オリンピックで選手村の警備を担当したことが大きな転機になりました。
社名がセコムになったのは1983年
創業時の社名は日本警備保障です。
セコムという社名に変わったのは1983年で、創業から21年後のことでした。
飯田亮さんは1976年に会長、1997年に取締役最高顧問となり、経営の第一線からは早い段階で退いています。
2023年1月に89歳で死去
飯田亮さんは2023年1月7日午前7時4分、心不全のため89歳で亡くなりました。
前年の2022年6月に取締役を退任し、創業者・顧問という立場になったばかりでした。
会社の発表では、葬儀は近親者で行い、お別れの会を後日開くとされています。
日本警備保障の設立が1962年ですから、警備という産業を60年見届けたことになります。
1980年には全国警備業協会の初代会長にも就いていて、一社の創業者という枠を超えた存在でした。
2000年に介護保険法が施行されたあとは介護事業にも乗り出しています。
80代半ばまで新しい事業の話をしていた人だったと伝えられていて、そこはもう筋金入りだなと思います。
サジェストに同姓同名の別人が混ざる
最後に、検索するときの注意点をひとつ。
「飯田亮」で検索すると、セコムとはまったく関係のない話題が候補に出てくることがあります。
スポーツ選手など、同じ読み・同じ表記の別人が複数いるためです。
セコム創業者の情報を調べたいときは、「セコム 飯田亮」と社名を添えて検索すると精度が上がりますよ。
サジェストに出てくる話題がすべて同一人物のものとは限らないので、ここは気をつけてください。
セコムの飯田亮の息子のまとめ
- 飯田亮はセコムの創業者で、1933年4月1日生まれ
- 息子は長男の飯田剛一とされ、1960年生まれと記録されている
- ただし息子の情報を扱う媒体は限られ、大手メディアでの言及はほとんどない
- 息子はセコムの役員として名前が出ておらず、公人としての活動は確認できない
- 長女は飯田まみとされ、その夫が尾関一郎
- 尾関一郎は2019年から2024年までセコムの代表取締役社長を務めた
- 尾関一郎は1961年生まれで、住友銀行・東京製鐵を経てセコム損害保険に入った
- 2016年5月の会長・社長同時解任の人事で、尾関一郎が取締役候補に浮上した
- 2024年4月にはセコム社長が吉田保幸に交代し、創業家以外へ引き継がれた
- セコムは40年で10人が社長を務めており、同族で継承する体制ではない
- 飯田亮は父・紋治郎に「男の子ならシャキっとしろ」と叱られた体験を仕事の原点と語った
- 実家は東京・日本橋の酒問屋、岡永商店(現・岡永)
- 兄の博は岡永、保はテンアライド、勧はオーケーをそれぞれ率いた経営者
- セコムは学習院大学時代の友人・戸田壽一との共同創業で、設立は1962年7月7日
- 飯田亮は2023年1月7日に心不全のため89歳で死去した


