四つん這いでタスキをつないだあの姿を、今も覚えている方は多いと思います。
飯田怜さんは右脛骨を折りながら中継所へ向かい、その後およそ3年かけて同じ舞台に戻ってきました。
ところが今、岩谷産業陸上競技部の公式サイトを開いても、その名前はどこにも見当たりません。
・飯田怜が2026年9月時点で岩谷産業の選手として登録されていない事実と、その確認方法
・引退の公式発表があったのかどうかと、2022年に選手紹介欄から名前が消えた経緯
・2018年の転倒と右脛骨骨折から約3年かけて復帰し、最後に走ったレースまでの流れ
飯田怜の現在は岩谷産業の選手ではない
まず結論からお伝えすると、飯田怜さんは2026年9月時点で岩谷産業陸上競技部の選手として登録されていません。
ここでは、公式サイトで確認できる事実を軸に、今どういう立場にいるのかを順番に整理していきますね。
2022年に選手紹介欄から名前が消えた
飯田怜さんの現在を知るうえで、いちばん大きな区切りになっているのが2022年です。
2022年になって、岩谷産業陸上競技部の選手紹介欄から飯田怜さんの名前が削除されました。
2018年に入社してから、ずっと選手として名前が載っていた欄です。
そこから名前が消えたということは、少なくとも「競技者としてチームに登録されている状態」ではなくなった、ということになります。
ここ、気になりますよね。
ただ注意しておきたいのは、選手紹介欄の削除は、あくまで「登録が外れた」という事実しか示していないという点です。
引退したのか、競技を離れて別の部署に移ったのか、それとも会社そのものを離れたのか。
そこまでは、この一点だけでは分かりません。
名前が消えたという事実は確認できますが、その理由は公表されていないというのが実際のところです。
公式サイトのメンバー一覧に名前がない
2022年の削除から数年が経った今はどうなっているのか、実際に確認してみました。
岩谷産業陸上競技部の公式サイトには「メンバー・スタッフ紹介」のページがあり、所属している選手とスタッフが顔写真つきで一覧になっています。
2026年9月時点でこの一覧に掲載されている選手は15名で、その中に飯田怜さんの名前はありません。
念のためスタッフ欄も見てみましたが、そちらにも名前は載っていませんでした。
つまり、選手としてもスタッフとしても、現在のチームには関わっていないと読める状態です。
監督は今も廣瀬永和が務めている
ちなみに、2018年のあの出来事のときに監督を務めていた廣瀬永和さんは、2026年9月時点でも変わらず監督の座にいます。
アドバイザーには女子マラソンの金メダリストである野口みずきさんが入っていて、チーム自体はむしろ体制を厚くしている印象です。
チームは続いていて、そこに飯田怜さんの名前だけがない。
……なんとも言えない気持ちになりますよね。
引退の公式発表は確認できていない
ネット上では「飯田怜は引退した」という書かれ方をよく見かけます。
ただ、ここは正確に押さえておきたいところです。
飯田怜さん本人からも、所属していた岩谷産業からも、引退を明言した公式発表は確認できませんでした。
あるのは、先にお伝えした2つの事実だけなんですよね。
| 確認できること | 内容 |
|---|---|
| 2022年の選手紹介欄 | 飯田怜の名前が削除された |
| 2026年9月の公式メンバー一覧 | 選手・スタッフともに名前がない |
| 引退の公式発表 | 確認できない |
| 最後の公式記録 | 2021年11月28日のクイーンズ駅伝 |
この表を見てもらうと分かりやすいと思うのですが、「引退」という言葉そのものは、どこにも出てきていません。
競技から離れていることは記録からも読み取れますが、それを本人が「引退」と表明したかどうかは別の話です。
この記事でも、引退したと断定する書き方はしないでおきますね。
岩谷産業グループ企業で働くとの情報
では今、何をしているのか。
ここについては、ネット上に一つの情報が流れています。
岩谷産業グループの「南九州マルヰ株式会社」という会社に飯田怜さんの写真が掲載されていて、お客さんにサービスを説明する仕事をしている、というものです。
ただ、この情報には注意が必要でした。
南九州マルヰ株式会社は現在「イワタニ南九州株式会社」に社名が変わっており、2026年9月時点の公式サイトを確認しましたが、飯田怜さんの掲載は見つかりませんでした。
社名変更にともなってサイトが作り直されたのか、掲載自体が終わっているのか、そこまでは分かりません。
イワタニ南九州株式会社は熊本市東区に本社を置き、LPガスの販売を手がける岩谷産業グループの会社です。
飯田怜さんは熊本県上益城郡甲佐町の出身なので、地元にあたる会社ではあります。
グループ企業で働いているという話は複数のサイトで書かれていますが、公式サイトでは裏づけが取れなかった、というのが現時点の状況です。
一般企業で働いている方の勤務先の話ですから、この記事でもここから先には踏み込まないでおきます。
復帰後に残した2レースの記録
競技者としての飯田怜さんが最後に残した記録も、きちんと見ておきましょう。
大けがから復帰したあと、飯田怜さんは2つの駅伝を走っています。
| 日付 | 大会 | 区間 | タイム | 区間順位 |
|---|---|---|---|---|
| 2017年12月24日 | 全国女子高校駅伝 | 4区 | 9分42秒 | 10位 |
| 2018年10月21日 | プリンセス駅伝 | 2区 | 17分09秒 | 27位 |
| 2021年10月24日 | プリンセス駅伝 | 2区 | 11分34秒 | 18位 |
| 2021年11月28日 | クイーンズ駅伝 | 2区 | 10分36秒 | 19位 |
2018年の17分09秒というタイムが、四つん這いでタスキをつないだあのレースのものです。
そして3年後、同じプリンセス駅伝の同じ2区を11分34秒で走り切っています。
数字だけ並べると素っ気ないのですが、この差を見ると、あの3年間に何があったのかが少しだけ伝わってくる気がします。
復帰戦でチームはクイーンズ駅伝初出場を決めた
もうひとつ添えておきたいのが、2021年10月のプリンセス駅伝の結果です。
このレースで岩谷産業は、チーム史上初となるクイーンズ駅伝出場を決めました。
3年前に最下位近くまで沈んだ場所で、今度はチームを全国大会へ送り出す走りをしている。
……これ、なかなかできることじゃないですよね。
そして翌月のクイーンズ駅伝でも2区を走り、10分36秒という記録を残しています。
公式記録として残っている最後のレースは、2021年11月28日のクイーンズ駅伝2区です。
飯田怜の現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、飯田怜さんと一緒に検索されることの多い話題をまとめていきます。
そもそも何があったのか、年齢や結婚はどうなのかといった疑問に、順番に答えていきますね。
2018年のプリンセス駅伝で何があったのか
飯田怜さんの名前が全国に知られるきっかけになったのが、2018年10月21日の第4回プリンセス駅伝in宗像・福津です。
1999年生まれで、岩谷産業に入社して1年目のシーズンでした。
2区を走っていた飯田怜さんは、第2中継所まで残り約250メートルの地点で転倒します。
立ち上がることができず、それでも次の走者にタスキを渡すため、四つん這いのまま前へ進みました。
流血しながら、白線の上を這うようにして進む姿はテレビ中継でそのまま流れ、大きな反響を呼びます。
正直、映像を見返すと今でも胸が詰まります。
最終的に飯田怜さんは3区の今田麻里絵さんにタスキを渡し、チームは最下位を免れました。
監督の棄権の申し出は届いていなかった
この出来事で議論になったのが、止められなかった経緯です。
岩谷産業陸上競技部の廣瀬永和監督は、監督室でライブ映像を見て、大会運営側に棄権を申し出ていました。
ところが連絡がうまく通らず一旦差し戻され、現場に伝わったのは中継所まで残り15メートルの地点だったといいます。
廣瀬監督はレース後、「あの状況をみたら、どの指導者でも止める」とコメントしています。
岩谷産業の広報も「うまく伝わっていなかったのか、選手の意思を尊重したのか分からないが非常に遺憾」という言葉を出しました。
会社もチームも、この件を美談として扱っていないんですよね。
この一件でルールが明文化された
そしてこの出来事は、駅伝そのもののルールを変えました。
2018年11月24日、仙台市で行われた全日本実業団対抗女子駅伝競走大会の監督会議で、選手が続行の意志を示していても審判の判断で棄権させられることが明文化されます。
翌11月25日の大会では、実際に九電工の3区の選手が負傷した際、審判員が走行を中止させる判断を下しました。
飯田怜さんの一件が、その後の選手を守る仕組みにつながったことは確かです。
転倒シーンで審判に残りの距離を聞いた
転倒シーンについて、意外と知られていない部分があります。
飯田怜さんは倒れたあと、そばにいた審判員に残りの距離を尋ねていました。
そのうえで、コースを外れないよう白線の上を選んで進んでいます。
痛みの中で、それだけの判断ができていたということです。
え、そうだったの!?と思いませんでしたか。
中継では、そばにいた審判とみられる男性の「あと70メートル!俺は行かせてやりたい。気持ちは!!」という声も拾われていました。
審判員の一人は後に、声をかけたものの本人の続ける意志が強く躊躇したと話しています。
識者の反応は賛否が分かれた
このタスキリレーには「感動した」という声と「止めるべきだった」という声の両方が集まりました。
| 人物 | 発言の要旨 |
|---|---|
| 有森裕子 | 駅伝はチーム戦でつなごうとするのは当然だが、美談にしてはいけない |
| 増田明美 | レースを止めるルールを示すガイドラインが必要 |
| 原晋 | 駅伝の光と影を見た思い。私だったら止める |
| 玉木正之 | 「命のたすき」などと美談にすべきではない |
陸上に関わってきた人ほど、感動という言葉で片づけることに慎重だったのが印象的です。
タスキを受け取った今田麻里絵さんも、止めに入ればよかったのかもしれないと後悔を語り、泣きながら走ったためレース中のことをあまり覚えていないと話しています。
これはきつかったでしょうね……。
骨折の原因は転倒による右脛骨骨折
けがの内容についても整理しておきます。
レース後の診断は右脛骨骨折で、全治3〜4か月でした。
脛骨はすねの太いほうの骨で、体重を支える役割を持つ骨です。
けがの原因は走行中の転倒です。
転倒した地点が中継所まで残り約250メートルでしたから、その距離を自力で進んだことになります。
飯田怜さんは2018年10月末に京都府内の病院で手術を受け、1か月ほど入院しました。
退院後、リハビリを開始したことが同年12月に報じられています。
全治3〜4か月と診断されたけがでしたが、実際にレースへ戻るまでには約3年かかりました。
復帰までにかかった約3年の道のり
診断された全治期間と、実際に復帰するまでの期間が大きくずれている点は、覚えておきたいところです。
時系列で並べると、こうなります。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 2018年10月21日 | プリンセス駅伝2区で転倒、右脛骨骨折 |
| 2018年10月末 | 京都府内の病院で手術 |
| 2018年11月頃 | 約1か月の入院 |
| 2018年12月 | リハビリ開始が報じられる |
| 2021年10月24日 | プリンセス駅伝2区で復帰 |
| 2021年11月28日 | クイーンズ駅伝2区を走る |
骨がついてから走れるようになるまで、そして駅伝のメンバーに選ばれるまでには、また別の時間が必要だったということですよね。
しかも復帰の舞台に選んだのが、けがをしたのと同じプリンセス駅伝の、同じ2区です。
3年前と同じ場所に立って、今度は最後まで走り切った。
……これは、なかなか言葉になりません。
年齢は1999年生まれで27歳になる年
飯田怜さんの基本的なプロフィールもまとめておきます。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 飯田怜(いいだ れい) |
| 生年 | 1999年 |
| 出身地 | 熊本県上益城郡甲佐町 |
| 出身中学 | 甲佐町立甲佐中学校 |
| 出身高校 | ルーテル学院高等学校 |
| 所属 | 岩谷産業(2018年入社) |
| 種目 | 中距離走、駅伝 |
1999年生まれなので、2026年中に27歳になる計算です。
生年月日までは公表されていないため、今何歳かは誕生日の前か後かで変わります。
陸上を始めたのは中学からで、小学校ではバスケットボールをしていました。
6年生のときに甲佐町ロードレース大会で優勝したことがきっかけで、甲佐中学校では陸上部に入っています。
中学3年で熊本県中学校体育連盟の陸上競技大会800メートル走3位。
ルーテル学院高校では寮生活を送り、3年生で主将を務めて学校初の全国高等学校駅伝競走大会出場を果たしました。
その全国大会では4区を9分42秒、区間10位で走っています。
高校時代からすでに全国で戦える選手だったんですよね。
結婚や子供の情報は見つからない
結婚についても検索されることが多いので触れておきます。
飯田怜さんの結婚や子供に関する情報は、確認できませんでした。
結婚を発表したという報道もなければ、交際相手に関する報道も見つかりません。
現在は競技の第一線を離れていて、公の場に出る機会そのものがほとんどない状態です。
一般の方と同じ生活を送っているとすれば、結婚に関する情報が表に出てこないのはむしろ自然なことかなと思います。
インスタなど公式SNSは確認できない
もう一点、SNSについてです。
検索すると「飯田怜」の名前でインスタグラムの投稿が出てくることがありますが、本人が運営していると確認できる公式アカウントは見つかりませんでした。
同姓同名の方のアカウントや、駅伝ファンが当時の映像を投稿したものが混ざっているケースが多いようです。
岩谷産業陸上競技部の公式サイトには所属選手のブログもありますが、こちらも現在のメンバーのものだけで、飯田怜さんの記事は残っていません。
近況を知る手がかりは、今のところ表には出ていない状況です。
そっとしておくのがいちばんなのかもしれませんね。
飯田怜の現在のまとめ
- 飯田怜は2026年9月時点で岩谷産業陸上競技部の選手として登録されていない
- 2022年に岩谷産業陸上競技部の選手紹介欄から名前が削除された
- 公式サイトのメンバー・スタッフ一覧にも名前は掲載されていない
- 本人・所属先ともに引退を明言した公式発表は確認できない
- 岩谷産業グループの南九州マルヰ株式会社で働いているという情報がある
- 同社は現在イワタニ南九州株式会社に社名変更しており、公式サイトに掲載は確認できなかった
- 公式記録として残る最後のレースは2021年11月28日のクイーンズ駅伝2区
- 2018年10月21日のプリンセス駅伝2区で転倒し四つん這いでタスキをつないだ
- 診断は右脛骨骨折で全治3〜4か月だった
- 2018年10月末に京都府内で手術を受け約1か月入院した
- 復帰までには約3年かかり2021年10月のプリンセス駅伝で戻った
- 復帰戦で岩谷産業はクイーンズ駅伝初出場を決めている
- 1999年生まれで熊本県上益城郡甲佐町の出身
- ルーテル学院高校では主将として学校初の全国高校駅伝出場を果たした
- 結婚や子供、本人が運営する公式SNSに関する情報は確認できない


