松山容子さんの現在について調べている方、多いのではないでしょうか。
「ボンカレーさん」として昭和の看板に描かれ続けた顔なのに、テレビで見かけることはほとんどありません。
実は引退から55年たった今も、松山容子さんの姿は沖縄のスーパーの棚で”現役”なんです。
・松山容子の現在の年齢と、表舞台に出ていない理由
・引退から55年たった今もパッケージが使われ続けている場所
・1971年に芸能界を退いたきっかけと、その後の家族のこと
松山容子の現在と引退後の歩み
まずは松山容子さんの現在の状況から見ていきます。
年齢や引退の経緯、そして「今も続いている仕事」まで、順番に整理していきますね。
芸能界を引退して55年、表舞台には出ていない
結論から言うと、松山容子さんは1971年3月に芸能活動を休止して以来、テレビや映画の第一線には戻っていません。
1960年代には時代劇のヒロインとして毎週のようにブラウン管に映っていた人ですから、現在の露出の少なさは対照的です。
所属事務所の公式サイトも、本人名義のSNSも見当たりません。
ごくまれに過去作の特集や記念イベントに名前が出る程度で、俳優としての新作出演は確認できない状態が続いています。
つまり現在の松山容子さんは、完全に一般の生活者として静かに暮らしている、というのが実態です。
「消えた」というより「自分の意思で降りた」という表現のほうが近いのかなと思います。
沖縄限定ボンカレーのパッケージで今も現役
ここが一番おもしろいところなんですが、松山容子さんは沖縄限定で売られているボンカレーのパッケージに、今も起用され続けています。
大塚食品のボンカレーは1968年の発売時から松山容子さんがパッケージモデルを務めてきました。
全国版のデザインは何度も刷新されましたが、沖縄で流通しているボンカレー(甘口・中辛)だけは、あの着物姿のデザインがそのまま残っているんです。
沖縄県出身者が多く住む大阪市大正区や横浜市鶴見区など、県外の一部地域でも手に入ることがあります。
知ったときびっくりしませんでしたか。
本人が芸能界を離れて半世紀たっても、商品としての「松山容子」は途切れずに店頭に立ち続けているわけです。
沖縄でだけデザインが残っている理由
公式に「なぜ沖縄だけなのか」を細かく説明した資料は見当たりません。
ただ、沖縄では発売当初のパッケージへの支持が根強く、地元の定番商品として長く親しまれてきた経緯があります。
県民に愛されたデザインをあえて変えない、という判断が続いてきたと考えるのが自然でしょう。
1971年の引退理由は棚下照生との結婚
松山容子さんが表舞台から退いたきっかけは、1971年3月の結婚です。
お相手は劇画家の棚下照生さん。
『めくらのお市物語』『旅がらすくれないお仙』などを手がけた作家で、松山容子さんが主演した作品の原作者でもあります。
出会いは『旅がらすくれないお仙』がテレビドラマ化されたことがきっかけだったと伝えられています。
原作者と主演女優という関係から結婚に至ったわけですね。
当時の松山容子さんは33歳で、ボンカレーのCMでも顔が知られ、主演作も続いていた時期でした。
人気が落ちたから辞めたのではなく、絶頂期に自分から活動を絞ったという点が、この引退の特徴です。
……なかなかできることじゃないですよね。
夫・棚下照生とは2003年に死別
結婚生活は32年続きましたが、棚下照生さんは2003年に肝硬変のため69歳で亡くなっています。
棚下照生さんは1934年3月22日生まれ、宮崎県延岡市の出身。
16歳で上京し、新聞配達などで生活をつなぎながら1951年、17歳でデビューした苦労人です。
児童向けの剣戟漫画で人気を得たあと、青年誌で女侠客や股旅ものを描き、1970年代以降は作品数を減らして新宿で音楽パブを営んでいました。
そのパブには手塚治虫さんが顔を出すこともあったといいます。
松山容子さんにとって現在は、夫を見送ってから20年以上が過ぎた時間ということになります。
ボンカレー50周年に寄せたビデオメッセージ
近年、松山容子さんが公の場に姿を見せた数少ない機会が、2018年1月22日に東京都内で開かれたボンカレー50周年記念発表会です。
会場に本人が登壇したわけではなく、ビデオメッセージという形での参加でした。
そこで松山容子さんは「ボンカレーとは、ほのぼのとした幸せを運んでくれる宝だったと思います」と振り返っています。
さらに「ずっと皆さんにボンカレーさんと呼ばれていましたので、それが大変うれしい」とも語りました。
もうひとつ印象的なのが「お料理があんまり好きではない私にとって、うってつけのものだ」というコメント。
レトルトカレーの顔として50年立ち続けた人の言葉としては、正直かわいらしいですよね。
この2018年のメッセージが、松山容子さんの近況が公に確認できたほぼ最後の機会です。
1937年生まれで現在88歳
松山容子さんは1937年11月30日生まれで、2026年8月時点の年齢は88歳です。
本名は田中曠子さん、旧姓は出井さんといいます。
基本的なプロフィールを整理すると次のとおりです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1937年11月30日 |
| 年齢 | 88歳(2026年8月時点) |
| 本名 | 田中曠子(旧姓・出井) |
| 出身地 | 愛媛県松山市 |
| 出身校 | 愛媛県立松山南高等学校 |
| デビュー | 1957年(松竹ニューフェイス) |
| 活動休止 | 1971年3月 |
訃報の類は確認されていません。
現在も存命であり、公の活動をしていないだけ、というのが現時点で確認できる情報です。
子供の有無は公表されていない
「松山容子さんに息子がいるらしい」という話を見かけることがあります。
ただ、Wikipediaにも子供に関する記述はなく、大手メディアの記事でも家族構成に踏み込んだものは見つかりません。
現時点では、子供がいるかどうかは公表されていない、と受け止めるのが正確です。
引退後の松山容子さんは一貫して私生活を語ってこなかった人ですから、この情報の少なさ自体が姿勢の表れなのかなと思います。
松山容子の現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、松山容子さんが「なぜ今も名前が残っているのか」を理解するための代表作や経歴をまとめます。
現在の静けさとのギャップが、けっこう強烈ですよ。
琴姫七変化で見せたアクション時代劇
松山容子さんの代表作といえば、1960年から1962年によみうりテレビで放送された『琴姫七変化』です。
主人公の琴姫を演じ、七つの姿に変装しながら悪を討つヒロイン像で人気を集めました。
当時としては珍しく、女性が主役として本格的な殺陣をこなす作品でした。
この役で松山容子さんは「女性アクション時代劇の先駆け」と評価されるようになります。
改名後のドラマ『天馬天平』で男装の姫君を演じて注目されたのが、その助走にあたります。
めくらのお市シリーズ全4作に主演
映画では『めくらのお市』シリーズの主演が知られています。
夫となる棚下照生さんの原作を映像化した作品群で、盲目の女剣士が旅をしながら悪を斬るという内容です。
| 公開年 | タイトル |
|---|---|
| 1969年 | めくらのお市物語 真っ赤な流れ鳥 |
| 1969年 | めくらのお市 地獄肌 |
| 1969年 | めくらのお市 みだれ笠 |
| 1970年 | めくらのお市 命貰います |
1969年から1970年にかけて全4作が公開されました。
『座頭市』の女性版とも言われ、現在も名画座で特集上映が組まれることがあります。
引退から半世紀たっても作品が上映され続けているのは、当時の存在感の大きさの証拠ですよね。
ホーロー看板は9万5000枚が貼られた
松山容子さんの顔が全国に浸透した最大の理由が、ボンカレーのホーロー看板です。
ボンカレー公式サイトによると、発売当初の販売促進で貼られた看板の総数は9万5000枚にのぼりました。
商店の壁、路地、駅前。昭和の風景の一部として、日本中に松山容子さんがいたことになります。
近年は屋外に残る「野生の看板」を探すのが難しくなっていますが、荒川線・三ノ輪橋駅の周辺や、横浜市中央北エリアの駄菓子店などで見ることができると紹介されています。
女優としての出演歴以上に、この看板こそが松山容子さんの名前を現在まで運んできた存在だと言えます。
出身は愛媛県松山市で松山南高校卒
松山容子さんの出身は愛媛県松山市です。
銀行を経営する家に生まれたとされ、地元では名の知られた家庭だったと伝えられています。
学歴は愛媛県立松山南高等学校の卒業。
高校卒業後はNHK松山放送局に事務員として入局しており、最初から女優志望だったわけではありませんでした。
「松山容子」という芸名も、出身地の松山と重なる響きになっています。
アサヒグラフの表紙がデビューのきっかけ
芸能界入りのきっかけは、高校在学中の1956年2月5日、『アサヒグラフ』の表紙モデルを務めたことでした。
この表紙が松竹の役員の目に留まり、高校卒業と同時に松竹ニューフェイスとして入社することになります。
1957年6月4日公開の『勢揃い桃色御殿』で端役デビュー、同年11月19日の『侍ニッポン』で本格的にスクリーンに登場しました。
当初は松山清子という芸名で、1959年に松山容子へ改名しています。
1枚のグラビア表紙から始まって、最後は9万5000枚の看板になった人生というわけです。
松山容子の現在のまとめ
- 松山容子は1937年11月30日生まれで、2026年8月時点で88歳
- 本名は田中曠子(旧姓・出井)、愛媛県松山市の出身
- 1971年3月の結婚を機に芸能活動を休止し、以後は表舞台に出ていない
- 結婚相手は『めくらのお市物語』の原作者である劇画家・棚下照生
- 2人の縁は『旅がらすくれないお仙』のドラマ化がきっかけとされる
- 棚下照生は2003年に肝硬変のため69歳で死去している
- 子供がいるかどうかは公表されておらず、確かな情報は見当たらない
- 訃報は確認されておらず、現在も存命とみられる
- 沖縄限定のボンカレーには現在も松山容子のパッケージが使われている
- 沖縄県出身者の多い大阪市大正区や横浜市鶴見区などでも入手できる場合がある
- 2018年1月のボンカレー50周年発表会にビデオメッセージを寄せた
- そこで「ほのぼのとした幸せを運んでくれる宝」とボンカレーを表現した
- 代表作は1960年から1962年放送のテレビドラマ『琴姫七変化』
- 映画『めくらのお市』シリーズには1969年から1970年に全4作で主演
- ボンカレーのホーロー看板は発売当初に9万5000枚が貼られた

