2代目水戸黄門として親しまれた西村晃さんですが、息子さんの情報を探しても、名前すら出てこないんですよね。
実は俳優の西村雅彦さんが息子だと思われてきた時期が長くあって、いまも信じている方がいるほどなんです。
この記事では、公表されていることと分かっていないことを分けたうえで、特攻隊時代に残された1歳の子どもの証言までたどっていきます。
・西村晃の息子の名前や職業が公表されていない現状
・西村雅彦が息子だと誤解されてきた経緯と、血縁がない理由
・特攻隊時代に千玄室が語った、1歳の子どもをめぐる証言
西村晃の息子について公表されている情報
2代目水戸黄門として知られる西村晃さんですが、息子さんの情報を探しても、なかなか出てこないんですよね。
ここでは、確認できる範囲でわかっていることと、逆に「わかっていないこと」をはっきり分けて整理していきます。
息子の名前や職業は公表されていない
まず結論からお伝えします。
西村晃さんの息子について、名前・生年・職業・現在の様子といった具体的な情報は、どこにも公表されていません。
芸能人の家族を紹介するサイトを何件かあたってみても、状況は同じでした。
昭和の著名人をまとめている昭和ガイドでも、西村晃さんのページには年表や受賞歴が細かく載っている一方で、子孫の欄については情報が見つからなかったという趣旨の記載になっています。
芸能まとめ系のメディアでも、息子がいたという確実な情報は見つからなかったと、はっきり書かれているものがありました。
西村晃さんが亡くなったのは1997年4月15日です。
すでに30年近い年月が経っていて、しかも当時はいまのようにSNSで家族が発信する時代でもありませんでした。
息子さんが芸能界に入っていないのであれば、名前が表に出てこないのはむしろ自然なことだと言えます。
一般人の家族なので情報が出ないのは当たり前
ここ、念のため補足しておきますね。
芸能人の子どもというと二世タレントとして活動しているのではと考えてしまいがちですが、西村晃さんの場合、子どもが芸能活動をしていたという記録は確認できませんでした。
一般の方であれば、氏名や勤務先が報じられないのは当然です。
情報が出てこないこと自体が、何かを隠しているという意味ではないわけですね。
特攻隊時代にはすでに子どもがいた
では、そもそも子どもはいたのか。
ここについては、かなり具体的な証言が残っています。
西村晃さんは1923年(大正12年)1月25日、北海道札幌市の生まれです。
1940年に日本大学専門部芸術科へ入学し、在学中から舞台に立っていました。
そして1943年、学徒動員によって兵役に就きます。
第十四期海軍飛行予備学生として土浦海軍航空隊で約2ヶ月の士官教育を受けたのち、徳島海軍航空隊へ配属されました。
この学徒動員の時点で、西村晃さんにはすでに妻と子どもがいたとされています。
1923年生まれですから、動員されたときはまだ20歳前後です。
いまの感覚だと大学生の年齢で、すでに家庭を持っていたということになりますね。
戦時中はけっして珍しいことではありませんが、それでも、これから特攻隊員になる立場で幼い子どもがいたという事実は、なかなか重いものがあります。
千玄室が徳島で子どもをあやしていた
西村晃さんの子どもについて、いちばん具体的な情報を残しているのが、生涯の親友だった千玄室さんの回想です。
千玄室さんは茶道裏千家の15代家元で、西村晃さんとは学徒動員の際に舞鶴の海兵団で知り合いました。
その後そろって徳島海軍航空隊へ配属され、同じ白菊特別攻撃隊の隊員として出撃の日を待つことになります。
その徳島時代の話として、千玄室さんはこんな趣旨のことを語っています。
西村晃さんの奥さんが1歳の子どもを連れて徳島まで面会に来ており、千玄室さん自身もよく西村さんのところへ行っては、その子どもをあやしていたというものです。
これ、読んでいて胸が締め付けられました。
明日にも出撃するかもしれない基地に、妻が赤ん坊を抱いて会いに来ている。
そのそばで、同じく出撃を待つ親友が赤ん坊をあやしている。
言葉にすると数行ですが、その場の空気を想像すると、なんとも言えない気持ちになりますよね。
なお、この証言はあくまで千玄室さんの回想を紹介した記事によるもので、公的な記録として残っているものではありません。
そのため、この子どもが息子だったのか娘だったのかまでは、証言のなかでは明言されていない点には注意が必要です。
一部のサイトではおそらく息子と補って書かれていますが、これは書き手の推測であって、確定した情報ではありません。
子どもが何人いたかは分かっていない
千玄室さんの証言で確認できるのは、1944年から1945年ごろの時点で1歳の子どもがいたということだけです。
その後に子どもが増えたのか、生涯で何人の子どもがいたのかについては、公表された情報が一切ありません。
西村晃さんは戦後、1946年に東京芸術劇場の第一期生となり、翌年退団して東京青年劇場を結成します。
1951年には映画デビュー、1954年には劇団青俳を設立と、家庭よりも仕事の話ばかりが記録に残っている俳優さんです。
家族について本人が語ったインタビューも、確認できる範囲では見つかりませんでした。
芸能人としては珍しいくらい、私生活を表に出さない人だったのかもしれませんね。
妻の名と並んで刻まれた多磨霊園の墓石
西村晃さんのお墓は、東京都の多磨霊園にあります。
区画は12区2種37側23番。
墓石の正面には、妻の名前と並んで西村晃の名が刻まれているとのことです。
妻の則子さんは1992年に亡くなっており、西村晃さんはその5年後に後を追うかたちになりました。
お墓を紹介している記事にも、子どもや遺族についての記載はありません。
触れられているのは、1997年の葬儀で葬儀委員長を務めた千玄室さんについてのみでした。
遺族の情報が公になっていないという点でも、家族が一般人として静かに暮らしていることがうかがえます。
西村雅彦が息子だという誤解が広まった理由
西村晃さんの息子を検索する人のなかには、ある1つの疑問を持っている方が多いはずです。
俳優の西村雅彦さん(現在の芸名は西村まさ彦さん)が息子なのではないか、という説ですね。
結論をお伝えすると、西村雅彦さんは西村晃さんの息子ではなく、血縁関係もありません。
この誤解、実はかなり昔から存在していて、2009年にはYahoo!知恵袋にも西村晃さんの息子さんは西村雅彦さんですかという質問が投稿されています。
質問者の方は、夫が2人でテレビ番組に出演していたから間違いないと主張して譲らない、という状況だったようです。
これに対するベストアンサーは、全然違います、何の関連性もありません、調べたが共演していた事実すらない、という明確な否定でした。
質問者の方は、旦那に胸をはって違うよと言ってやりました、でも納得していませんでした、と返信しています。
このやりとり、ちょっと微笑ましいですよね。
誤解が生まれた原因は名字と活躍時期の重なり
なぜここまで信じられてきたのでしょうか。
はっきりした理由が報じられているわけではありませんが、材料を並べていくと見えてくるものがあります。
まず、名字が同じ西村であること。
さらに、西村雅彦さんは1990年代のテレビドラマで一気に知名度を上げた俳優で、その時期は西村晃さんが水戸黄門で全国区の顔になっていた時期と重なります。
同じ時代に西村という名字の俳優が2人テレビに出ていれば、親子だと思い込む人が出てきても不思議ではありません。
ちなみに、京都出身の俳優・西村和彦さんも名字が同じことから同様に混同されることがありますが、こちらも西村晃さんとの血縁関係は確認されていません。
西村晃の息子を調べる人向けの関連情報
息子さんの情報が限られているぶん、ここからは西村晃さんご本人について気になるポイントをまとめていきます。
俳優としての経歴も、戦争体験も、家族との関係も、どれも読み応えのある内容ですよ。
死因は74歳での急性心不全
西村晃さんが亡くなったのは1997年(平成9年)4月15日、午前6時半のことでした。
死因は急性心不全で、74歳没です。
前日の4月14日の夜、東京都国分寺市の自宅で心不全を起こし、翌朝に息を引き取りました。
実は1995年11月に食道がんの手術を受けていたのですが、このときは元気に退院しています。
亡くなる直前の1997年3月にはスペシャルドラマ黄落の収録に参加していて、周囲も元気だと感じていたそうです。
がんを乗り越えた矢先の、あまりに突然の別れだったわけですね。
葬儀は密葬で執り行われました。
葬儀委員長を務めたのは、特攻隊時代からの親友である千玄室さんです。
これには理由があって、2人のあいだにはどちらかが亡くなったとき残された者が葬儀委員長を務めるという生前の約束があったといいます。
50年以上前の戦地で結ばれた約束が、こうして果たされたわけです。
なんというか、じんわりきますよね。
特攻隊員として出撃し生還した過去
西村晃さんの経歴で、もっとも語られることが多いのがこの部分です。
1943年に学徒動員で入隊し、徳島海軍航空隊の白菊特別攻撃隊に配属されました。
白菊というのは本来は練習機で、それに爆弾を積んで体当たりするという、あまりに過酷な作戦でした。
徳島新聞に掲載された千玄室さんの証言によると、土浦の予備学生およそ250人が徳島航空隊行きを命じられたのは1944年5月1日のこと。
そのとき西村晃さんはこれも運命だ、一緒に行って死のうじゃないかと語ったと伝えられています。
1945年3月には、本土決戦を前に特別攻撃隊が編成される場合に備え、熱望・希望・否のいずれかに丸をつけよという書類が配られました。
西村晃さんも千玄室さんも、迷わず熱望に丸をつけたそうです。
その1週間後、全員が特別攻撃隊として出撃すると発表されました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1943年 | 学徒動員で入隊、第十四期海軍飛行予備学生に |
| 1944年5月1日 | 予備学生約250人とともに徳島航空隊へ |
| 1945年3月 | 特攻の志願書類に熱望と記入 |
| 1945年 | 白菊特攻隊として出撃するも生還 |
| 1945年8月 | 終戦を迎える |
出撃自体は実際に行われましたが、西村晃さんの機はエンジンの不調により基地へ引き返すことになります。
そのまま終戦を迎え、生きて帰ることができました。
一説には、徳島の特攻隊員で生き残ったのは西村晃さんと千玄室さんの2人だけだったとも言われています。
NHKのアーカイブでも、千玄室さんがのちに俳優となる西村晃さんと出撃を待っていたと語る映像が公開されており、出撃前に別れの茶会を開いたエピソードなども残されています。
水戸黄門2代目を9年283回務めた
西村晃さんの代表作といえば、やはりTBSの国民的時代劇の水戸黄門でしょう。
1982年12月16日から、初代の東野英治郎さんの後任として2代目水戸光圀役に就任しました。
俳優人生で初めての主役だったといいます。
それまでの西村晃さんは悪役俳優としての印象が強かったため、当時は驚いた視聴者も多かったようです。
ところが実際に始まってみると、上品で洗練されていながら、どこかコミカルさもある独特の黄門様として大きな支持を集めました。
在任期間は足掛け9年、出演回数は283回にのぼります。
歴代の黄門役のなかでも、屈指の長さと言っていい記録ですね。
妻・則子の死が降板のきっかけ
その水戸黄門を、西村晃さんはある出来事をきっかけに降板します。
1992年、妻の則子さんが亡くなったことでした。
長年連れ添った妻を失ったショックが大きく、そのまま役を続けることができなかったと伝えられています。
最後の収録が行われたのは1992年9月25日でした。
国民的番組の主役という立場を、私生活の出来事で降りるというのは相当なことです。
それだけ、則子さんの存在が大きかったということなのでしょうね。
こういう話を知ると、画面のなかで笑っていた黄門様の見え方も、少し変わってきます。
父・西村真琴はロボット學天則の生みの親
西村晃さんの家族といえば、実は父親のほうが有名だったりします。
父は理学博士の西村真琴さんで、東洋初の人間型ロボット學天則を1928年に製作した人物です。
西村真琴さんは1883年3月26日、長野県松本市の生まれ。
広島高等師範学校の博物学科を卒業して教員となり、その後は満州で医学堂の教授を務めました。
1915年からはアメリカへ留学し、コロンビア大学の植物学専攻科に進学。
アメリカ自然史博物館に5年間従事し、1920年にコロンビア大学から博士号を取得しています。
帰国後の1921年には北海道帝国大学附属水産専門部の教授に就任しました。
西村晃さんが札幌生まれなのは、この時期に父が北海道にいたためですね。
1927年には阿寒湖のマリモ研究によって東京帝国大学から理学博士号を取得。
翌1928年に學天則を製作し、京都博覧会に出品しました。
圧縮空気を使って表情や動きを再現するという、当時としては驚異的な仕掛けだったといいます。
| 人物 | 続柄 | 主な肩書 |
|---|---|---|
| 西村真琴 | 父 | 理学博士、學天則の製作者、北海道帝国大学教授 |
| 西村晃 | 本人(次男) | 俳優、2代目水戸光圀役 |
| 西村則子 | 妻 | 一般の方、1992年死去 |
西村晃さんはこの真琴さんの次男にあたります。
そして面白いのが、映画の帝都大戦で、西村晃さんが実の父・西村真琴さんの役を演じているという事実です。
自分の父親を演じる俳優というのは、そうそういません。
どんな気持ちでカメラの前に立ったのか、ちょっと聞いてみたくなりますよね。
なお、真琴さんは1956年1月4日に72歳で亡くなっています。
若い頃は悪役俳優として知られた
水戸黄門のイメージが強い西村晃さんですが、それ以前は悪役の名手として知られた俳優でした。
1951年に映画デビューし、1954年には劇団青俳を旗揚げ。
同じ年に日活と本数契約を結び、映画とテレビの両方で存在感を発揮していきます。
代表的な出演作には、悪い奴ほどよく眠る、ゼロの焦点などがあります。
1964年には映画の赤い殺意で第19回毎日映画コンクール男優主演賞とブルーリボン賞助演男優賞を受賞。
1982年にはマタギで第37回毎日映画コンクール男優演技賞も受賞しています。
俳優としての評価は、水戸黄門の前からすでに確立されていたわけですね。
| 年 | 受賞・受章 |
|---|---|
| 1964年 | 毎日映画コンクール男優主演賞、ブルーリボン賞助演男優賞(赤い殺意) |
| 1982年 | 毎日映画コンクール男優演技賞(マタギ) |
| 1987年 | 紫綬褒章 |
| 1994年 | 勲四等旭日小綬章 |
1987年に紫綬褒章、1994年には勲四等旭日小綬章を受章しました。
悪役から国民的な黄門様まで演じ切った振れ幅こそが、西村晃さんという俳優の凄みだったと言えそうです。
付き人を務めていた市村正親
血縁ではありませんが、西村晃さんのもとで修業した有名俳優がいます。
ミュージカル俳優としても知られる市村正親さんが、若手時代に西村晃さんの付き人を務めていたのです。
市村正親さんは1949年1月28日生まれ。
西村晃さんの付き人を経て、1966年に日活の映画の涙になりたいで映画デビューを果たしました。
2025年には、当時のことを振り返って恥ずかしいけどと語る場面も報じられています。
およそ53年前の明治座での思い出だそうで、いまも当時のことを口にするということは、それだけ濃い時間だったのでしょうね。
息子の情報こそ表に出ていないものの、西村晃さんが次の世代へ残したものは、こういうかたちで確かに引き継がれています。
西村晃の息子についてのまとめ
- 息子の名前・生年・職業・現在は一切公表されていない
- 芸能まとめメディアも確実な情報は見つからないと明記している
- 昭和ガイドの西村晃のページにも子孫の情報は掲載されていない
- 学徒動員で入隊した1943年時点で、すでに妻と子どもがいたとされる
- 親友の千玄室の回想では、妻が1歳の子どもを連れて徳島へ面会に来ていた
- 千玄室自身も、その子どもをあやしていたと語っている
- ただしその子どもが息子か娘かは証言のなかで明言されていない
- おそらく息子という表現は書き手の推測であり確定情報ではない
- 生涯で何人の子どもがいたのかも分かっていない
- 俳優の西村雅彦(西村まさ彦)は息子ではなく血縁関係もない
- 2009年のYahoo!知恵袋にも同じ誤解についての質問が残っている
- 京都出身の俳優・西村和彦との血縁関係も確認されていない
- 妻の則子は1992年に死去し、そのショックで水戸黄門を降板した
- 墓は多磨霊園にあり、墓石には妻の名と並んで西村晃の名が刻まれている
- 1997年の葬儀で葬儀委員長を務めたのは、遺族ではなく親友の千玄室だった


