平成の新日本プロレスをヒール一色に染めた後藤達俊さん。
あの独特なバックドロップを覚えている方なら、いま何をしているのか気になったことが一度はあるはずです。
ところが調べていくと、ファンどころか業界の人間まで誰も連絡先を知らないという、ちょっと信じられない状況にたどり着きました。
・後藤達俊の現在が消息不明とされている理由
・水曜日のダウンタウンで名前が出た経緯と高木三四郎の発言
・最後の試合から新日本プロレス退団までの流れ
後藤達俊の現在は消息不明のままなのか
まずは本題から。後藤達俊さんが「いまどうしているのか」について、現時点で確認できる事実だけを順番に並べていきます。
結論から言うと、公の場に出てきた形跡がここ十数年ありません。
2011年を最後に試合記録が途絶えている
後藤達俊さんの試合記録は、2011年頃を最後に途絶えています。
新日本プロレスを離れたあとも、愛知県のDEPや大分県のFTOといったローカル団体を中心にリングへ上がり続けていました。
2010年には天龍源一郎さんの天龍プロジェクトにも参戦しています。
このときすでに50代半ばですから、正直かなりのタフさですよね。
ところがその翌年あたりを境に、名前が試合結果に出てこなくなります。
大きな団体を離れたレスラーの場合、地方興行の記録がそもそも残りにくいという事情もあります。
ただ、後藤達俊さんの場合は「記録が拾えない」というレベルではなく、プロレス界の人間が探しても本人にたどり着けないという状態が10年以上続いています。
無我を離れてからは地方の小さな団体が主戦場だった
2006年に新日本プロレスを退団したあと、後藤達俊さんは藤波辰爾さんが旗揚げした無我ワールド・プロレスリングに参戦し、同年9月に正式入団しています。
ただし所属契約は交わしていなかったとされています。
その後2007年11月、藤波さんの「無我にヒールは要らない」という趣旨の発言に対して、後藤達俊さんが東京スポーツ紙上で反論しました。
これを受けて無我側は「会社にとって不利益となりうる新聞記事掲載、発言、その他問題があった」として参戦取りやめを発表します。
事実上の追放という、かなり後味の悪い形でした。
この一件以降、活動の場は完全に地方のローカル団体へと移っていきます。
2008年には小原道由さんと組んで健介オフィスに乱入するなど、単発の顔出しはありました。
それでも、全国区のマットに定期参戦する形には戻っていません。
正式な引退発表は出ていない
ここが少しややこしいところなのですが、後藤達俊さんは引退セレモニーも引退試合も行っていません。
引退を告知する会見も、所属団体からの発表もありませんでした。
つまり書類の上では、いまも「引退していないレスラー」ということになります。
まとめサイトなどでは「2011年に引退」と言い切っているものも見かけますが、これは試合記録が途絶えた年をそのまま引退年として扱っているだけです。
Wikipediaをはじめとする記述でも、あくまで「事実上の引退状態」という書き方にとどまっています。
正式な引退発表がないまま、静かにリングから姿を消したというのが実際のところです。
皮肉な話なのですが、後藤達俊さんが新日本プロレスを辞めた理由そのものが「引退を拒否したから」でした。
2006年の契約更改でフロントから引退とコーチ就任を打診され、それを断って退団しているんです。
最後まで引退という言葉を受け入れなかった人が、引退宣言のないまま消えた。ここ、なんとも言えない気持ちになりませんか。
水曜日のダウンタウンで再び名前が出た
長く忘れられかけていた後藤達俊さんの名前が、突然お茶の間に戻ってきた瞬間があります。
2025年11月26日放送の『水曜日のダウンタウン』です。
この日は11回目となる「替え歌最強トーナメント」が行われ、審査員役としてプロレスラー51名が参加していました。
そこにレイザーラモンRGさんが登場します。
スキンヘッド、眉毛は全剃り、口ひげとアゴひげ、そして道着姿という徹底ぶりで、後藤達俊さんのモノマネを披露しました。
この見た目だけで会場が沸いたそうです。
プロレスファン以外の視聴者にまで、後藤達俊さんという名前が一気に届いた回になりました。
2回戦で披露された「連絡先を誰も知らない」というあるある
1回戦でRGさんが歌ったのは「後楽園ホールの控室近くの階段は冬場、外より寒い」という、やたらと解像度の高いあるあるでした。
これで大差の勝利を収めています。
そして問題の2回戦。
ここで披露されたのが、後藤達俊のいまの連絡先を誰も知らない、というプロレス界のあるあるでした。
笑いどころとして成立してしまう時点で、業界内でどれだけ有名な話なのかが伝わってきます。
実際、SNS上では「後藤達俊の時点で優勝」「最高のあるあるだった」といった称賛が並びました。
その一方で「連絡つかないんだね…」「今もお元気にされているのだろうか…」という心配の声も少なくなかったようです。
笑ったあとに、ふっと不安になる。そういう不思議な余韻が残った放送でした。
高木三四郎もオファーを出せなかった
このネタが単なる誇張ではないことを裏づけたのが、同じ番組内でのDDTプロレスリング・高木三四郎さんの発言です。
高木さんはこう語っています。
「試合出場オファーしようと思って色々探したんですけど、ホント連絡取れなくて。この番組見ていたら後藤さん、連絡ください」
団体の代表が、全国放送のテレビ番組を使って本人に呼びかけているわけです。
これ、よく考えるとかなり異常な状況ですよね。
後藤達俊さんは2006年5月4日にDDTへ参戦した実績があります。
つまり高木さんにとっては、まったく面識のない相手ではありません。
それでも連絡手段がないというのですから、事務所経由でも私的なつながりでもたどり着けないということになります。
放送を受けて、お笑いコンビ・や団の本間キッドさんもXで反応していました。
平成維震軍の旗を持っていて、あと後藤達俊さんのサインが入れば全員コンプリートなのだ、なんとかこれを機に連絡が取れないか、という内容です。
ファンも業界人も、みんな同じところで足踏みしている状態なんですよね。
田中ケロが2019年に情報提供を呼びかけた
消息が分からなくなったのは、テレビで話題になった2025年よりずっと前のことです。
元新日本プロレスのリングアナウンサーとして知られる田中ケロさんが、2019年3月にTwitterで情報提供を呼びかけていました。
その内容がなかなか生々しいので、要点を整理しておきます。
| 項目 | 田中ケロが明かした内容 |
|---|---|
| 最後に会ったのは | 約10年前、ポイズン澤田の引退セレモニー |
| そのときの様子 | やかんをひっくり返した火傷で試合ができないと話していた |
| 連絡手段 | 携帯番号が変わっており、実家の住所も知らない |
| 居場所の心当たり | 愛知県内、あるいは常滑近辺 |
田中ケロさんは呼びかけの中で「愛知県内or常滑近辺で、超ぐちゃぐちゃに酒グセ悪い、四角い顔の、62歳のじじい」を見かけたら教えてほしい、という言い方をしていました。
身内だからこそ許される、愛のある表現ですよね。
ただ、この呼びかけに対して決定的な情報は集まりませんでした。
「愛知県内の実家にいるのではないか」「名古屋の某団体で試合をしていたらしい」といった断片的な話が出た程度です。
2019年の段階で、すでに関係者にも足取りがつかめなくなっていたことになります。
愛知県常滑の実家にいる可能性
いまのところ、居場所として名前が挙がっている唯一の手がかりが愛知県です。
後藤達俊さんは愛知県常滑市の出身で、地元の名城大学附属高校から名城大学へ進んでいます。
大学ではウエイトリフティングでインターカレッジ3位という実績を残し、空手も修行していました。
卒業後は日産自動車に就職し、そこから1982年8月に26歳で新日本プロレスへ入門するという、少し遅めのスタートを切っています。
田中ケロさんが「愛知県内、常滑近辺」と書いたのは、この出身地が根拠でしょう。
プロレスを離れたあと地元に戻るというのは、想像としてはごく自然です。
ただし、これは本人や家族が認めた話ではありません。
時系列を追う限り、確認できているのは「愛知に実家がある」という一点だけで、そこに住んでいるかどうかまでは誰も裏を取れていない状況です。
関係者ですら実家の住所を把握していないという田中ケロさんの証言もありますから、地元説はあくまで推測の域を出ないと考えたほうがよさそうです。
亡くなったという公式発表はない
ここまで音沙汰がないと、どうしても最悪の想像をしてしまう方もいると思います。
実際、Yahoo!知恵袋には「まだ生きてますよね」という趣旨の質問が投稿されていますし、個人ブログの最終更新タイトルが気になるといった話も出回っています。
ただ、はっきりさせておきたいのは後藤達俊さんが亡くなったという公式な発表は、どこからも出ていないという事実です。
プロレスラーの訃報は、所属していた団体や専門メディアが必ず報じます。
同じ平成維震軍のメンバーでいえば、青柳政司さんが2022年7月に65歳で、小林邦昭さんが2024年9月に68歳で亡くなった際も、いずれもきちんと報道されました。
後藤達俊さんについては、そうした報道が一切ありません。
2025年になっても田中ケロさんをはじめとする関係者が消息を探し続けているという事実も、裏を返せば「まだ探す理由がある」ということです。
情報がないことと、悪い知らせがあることは別物ですからね。
ここは冷静に受け止めておきたいところです。
後藤達俊の現在を調べる人向けの関連情報
ここからは、後藤達俊さんの現在を調べている方が一緒に検索している内容をまとめていきます。
キャリアの背景を知っておくと、なぜここまで話題になるのかが腑に落ちるはずです。
新日本プロレスを退団したのは2006年1月
後藤達俊さんが新日本プロレスを離れたのは2006年1月27日のことです。
きっかけは契約更改の場でした。
フロント側から現役引退とコーチ就任を要請されたものの、後藤達俊さんはこれを拒否します。
そして所属を離れ、フリーランスとして再スタートを切りました。
当時49歳。ふつうなら差し出された椅子に座る場面ですよね。
それでもリングに立つほうを選んだあたりに、この人の性格がよく出ていると思います。
退団直後の動きも早く、2月28日にはキングスロードへ参戦。
「マッド後藤」というリングネームを使うこともありました。
5月19日にはZERO-ONE MAXの大阪大会でAWA世界ヘビー級王座に挑戦しています。
結果は敗戦でしたが、50歳目前でシングルのベルトに挑む姿は十分に現役そのものでした。
退団の直前に頭蓋骨骨折が判明していた
退団と同じ2006年1月、後藤達俊さんの身体について驚くような事実が明らかになっています。
過去に頭蓋骨を骨折していたにもかかわらず、まったく気づかないまま巡業に参加し続け、そのまま自然治癒していたというのです。
本人も周囲も把握していなかったというのですから、これは正直ぞっとします。
昭和から平成にかけてのプロレスラーがどれだけ身体を削っていたか、この一点だけでも伝わってきますよね。
バックドロップが代名詞になった理由
後藤達俊さんを語るうえで外せないのが、「Mr. バックドロップ」という異名です。
グレコローマン式と捻り式を組み合わせた独自のスタイルで、相手を垂直に近い角度から落とすのが特徴でした。
とにかく危険で、とにかく見栄えがする。ヒールの必殺技として、これ以上ないハマり方をしていたと思います。
この技には「殺人バックドロップ」「三途バックドロップ」「地獄バックドロップ」といった物騒な呼び名まで付けられていました。
馳浩を一時的に心停止に追い込んだ1990年の一戦
異名が決定的になったのは1990年6月12日の福岡大会です。
この試合で後藤達俊さんが放ったバックドロップにより、対戦相手の馳浩さんが一時的に心臓停止の状態に陥りました。
プロレスの試合で心停止という言葉が出てくること自体、そうそうありません。
読んでいて背筋が寒くなる出来事です。
この一件によって、後藤達俊さんのバックドロップは「本当に危ない技」としてファンの記憶に刻まれることになりました。
そのほかの得意技としては、リバース・チキンウィング、ラリアット、ジャーマン・スープレックスなどがあります。
ヒールらしくイス攻撃も定番でした。
平成維震軍で越中詩郎と共闘していた
後藤達俊さんのキャリアで最も印象に残っているのが、平成維震軍時代だという方も多いのではないでしょうか。
もともとは1989年10月、髪を金色に染めてヒールターンしたのが転機でした。
ヒロ斎藤さん、保永昇男さんとブロンド・アウトローズを結成しています。
その後1993年10月にレイジング・スタッフを離脱して反選手会同盟に加わり、トレードマークとなるスキンヘッド姿になりました。
平成維震軍では越中詩郎さんや小原道由さんと肩を並べ、WAR認定世界6人タッグ王座を獲得しています。
小原道由と獲ったIWGPタッグ王座
キャリアのハイライトは1999年6月27日に訪れます。
小原道由さんと組み、越中詩郎さんと佐々木健介さんの組からIWGPタッグ王座を奪取しました。第38代王者です。
ベルトを手にした控室で後藤達俊さんが放った「何だこの2本は!!」という一言は、いまでもファンの間で語り草になっています。
照れ隠しにしか聞こえないところが、また良いんですよね。
このほか、DEP無差別級王座の第3代王者、天龍プロジェクト認定世界6人タッグ王座の第16代王者にも輝いています。
ちなみに小原道由さんとのタッグは、nWoジャパンへの加入を目指して断られたあと「犬軍団」として活動していた時期があり、2003年にはクレイジー・ドッグスとして再結成されました。
入場曲はMr. B.D.
後藤達俊さんの入場曲として知られているのが「Mr. B.D.」です。
B.D.はもちろんバックドロップの頭文字ですね。
技の異名がそのまま入場曲のタイトルになっているレスラーというのも、なかなか珍しい存在です。
それだけあのバックドロップがブランドとして確立されていたということでしょう。
なお、この入場曲名は情報源が限られており、複数のメディアで裏づけが取れているわけではありません。
参考程度に受け止めておいてください。
マクドナルドのCMに出ていたこともある
意外に思われるかもしれませんが、後藤達俊さんはテレビCMに出演した経験があります。
2005年7月13日に放映されたマクドナルドの「ペッパーチーズダブルビーフ」のCMです。
このキャンペーンの顔を務めたのは中邑真輔さんと棚橋弘至さんで、後藤達俊さんは脇を固める形での出演でした。
撮影は同年6月29日に行われたとされています。
強面のヒールがハンバーガーのCMに出ているというギャップ、ちょっと見てみたくなりませんか。
ただしこちらの情報も出どころが限定的なので、確定情報として扱うのは避けておきます。
息子や家族の情報はほとんど出ていない
後藤達俊さんの家族については、検索でもよく調べられているテーマです。
ただ、妻や息子に関する情報は、ほとんど表に出ていないというのが実情です。
スポーツコラムニストの女性と結婚していると紹介しているサイトはありますが、複数の媒体で裏づけが取れる話ではありません。
反選手会同盟時代、スキンヘッド姿のまま妻の実家へ挨拶に行き、ご両親を凍りつかせてしまったというエピソードも伝えられています。
これが本当なら、なかなか強烈な初対面ですよね。
息子についても、プロレスラーとして活動しているといった情報は確認できません。
後藤達俊さんが現役だった昭和末期から平成にかけては、家族をメディアに出さないレスラーが多数派でした。
本人が家族について積極的に語るタイプでもなかったとされています。
消息が分からなくなっている現状を考えると、家族の情報が表に出てこないのは、むしろ筋が通っているようにも感じます。
後藤達俊の現在のまとめ
- 後藤達俊の現在は消息不明の状態が続いている
- 試合記録は2011年頃を最後に途絶えている
- 引退試合も引退会見も行っておらず正式な引退発表はない
- 書類の上では引退していないレスラーという扱いになる
- 2025年11月26日放送の水曜日のダウンタウンで名前が出た
- レイザーラモンRGが連絡先を誰も知らないというあるあるを披露した
- DDTの高木三四郎が番組内で本人に連絡を呼びかけた
- 高木三四郎は試合オファーのため探したが連絡が取れなかったと語っている
- 2019年3月には田中ケロがSNSで情報提供を呼びかけていた
- 田中ケロによると最後に会ったのはポイズン澤田の引退セレモニー
- 愛知県常滑市の出身で地元に戻っているとされる説がある
- 亡くなったという公式発表は一切出ていない
- 新日本プロレスの退団は2006年1月27日で引退要請を拒否したため
- Mr. バックドロップの異名を持ち1990年に馳浩を心停止に追い込んだ
- 1999年に小原道由と組んでIWGPタッグ王座を獲得している
- 妻や息子など家族に関する情報はほとんど公表されていない


