イーデス・ハンソンの現在は熊野古道の山里暮らし!テレビで見かけなくなった理由とは

イーデス・ハンソンの現在は熊野古道の山里暮らし!テレビで見かけなくなった理由とは

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大阪弁でまくしたてるアメリカ人タレントとして、昭和のテレビで人気だったイーデス・ハンソンさん。

最近はまったく見かけませんが、実は1987年から熊野古道の通る和歌山の山里で暮らしているんです。

その土地を選んだ理由には生まれ故郷インドでの幼少期の記憶が関係していて、調べるほど面白い人でした。

この記事を読むとわかること
・イーデス・ハンソンさんの現在の住まいと熊野での暮らしぶり
・テレビで見かけなくなった理由と、今の仕事・活動
・87歳の今と、公に確認できる最新の近況

イーデス・ハンソンの現在は熊野古道の山里で田舎暮らし

大阪弁のアメリカ人タレントとして親しまれたイーデス・ハンソンさんは、いま和歌山県の山里で暮らしています。どこで、何をしているのかを順番に見ていきましょう。

現在は和歌山県田辺市中辺路町で暮らしている

イーデス・ハンソンさんの現在の住まいは、和歌山県田辺市中辺路町(なかへちちょう)です。

熊野古道の「中辺路」ルートが通る、山あいの集落ですね。

移り住んだのは1987年で、当時はまだ西牟婁郡中辺路町と呼ばれていました。

その後の市町村合併で、本宮町・大塔村・龍神村などとともに田辺市に組み込まれています。

2004年には熊野古道が世界遺産に登録されたので、今では観光客も歩く土地になりました。

ハンソンさんは国土交通省のオンライン講演で、中辺路で暮らし始めて20年になると話していました。

移住が1987年なので、2026年の今年で40年ほどになる計算です。

来日してからの年数でいえば、人生の半分以上を熊野の山里で過ごしていることになりますね。

2016年には、落語家の桂米團治さんが自身のブログで「現在は和歌山県田辺市中辺路町に住んでおられます」と紹介していました。

2014年に熊野古道を歩いた人のブログにも、語り部から「ハンソンさんは古道に近い山の中腹に住んでいる」と聞いた話が残っています。

少なくとも公に確認できる範囲では、中辺路の山里が今もハンソンさんの暮らしの拠点ということになります。

山の水と軽のライトバンで暮らす日々

国交省の講演では、中辺路での暮らしぶりがかなり具体的に語られています。

集落では水道水ではなく、住民がお金を出し合って沢からポンプで汲み上げた山の水を使っているそうです。

台所やお風呂の水は農業用水として田んぼに流れるので、合成洗剤は使わないようにしているとのこと。

車は軽のライトバンで、「稲妻号」と名付けて愛用しているそうです。

走行距離は22万kmを超え、30万kmを目指すと話していました。

……なんか、いいですよね、この感じ。

スーパーまでは車で20分ほどで、救急車も来るし病院もあるので、日常生活で困ることはほとんどないと話しています。

中辺路を選んだのは生まれ故郷インドの記憶から

ハンソンさんが熊野の山里を選んだのには、はっきりした理由があります。

ハンソンさんはアメリカ人ですが、生まれたのはインド北部のマスーリという山あいの町です。

父親がデンマーク系の宣教師で、その赴任先だったため、9歳までインドで育ちました。

マスーリは海抜1800メートルを超える高地で、ヒマラヤの山並みが目の前に迫る土地です。

国交省の講演でハンソンさんは、子どもの頃にインドの自然の中で暮らした経験があり、またあのような暮らしをしたいと長年思っていたと語っています。

桂米團治さんのブログでも、生まれ故郷のマスーリとよく似た中辺路の地形や風土に安らぎを覚える、と紹介されていました。

家の窓から満月が見え、空の変化や山の音に毎日どっぷり浸かれる暮らしが気に入っているそうです。

都会が嫌になって逃げたのではなく、子どもの頃の山の暮らしをもう一度手に入れたかった、というのが移住の理由です。

実際、都会には都会の楽しさがあり、コンサートや美術館は必要なときに出かければいいという考え方なんですね。

大好きな野球を見に行くときなどは、時間をかけて都会へ出ていくそうです。

現在の仕事は講演と執筆、人権や子ども支援の活動

テレビで見かけなくなったハンソンさんですが、仕事をやめたわけではありません。

現在の軸は、講演・執筆と、人権や子どもの支援に関わる活動です。

主な肩書きを表にまとめました。

時期 活動
1986年〜1999年 アムネスティ・インターナショナル日本支部の支部長(13年間)
支部長退任後 アムネスティ日本の特別顧問
2002年度 和歌山県文化功労賞を受賞
2004年〜2014年 NPO法人エファジャパンの理事長
2014年以降 エファジャパンの顧問
2008年度 京都府亀岡市の生涯学習ゆう・あい賞「千登三子賞」を受賞
2010年度〜2013年度 近畿大学総合社会学部の客員教授

アムネスティは、世界中の人権侵害に取り組む国際的な人権団体です。

ハンソンさんは13年間にわたって日本支部の支部長を務め、退任後も特別顧問として関わり続けています。

エファジャパンは、ベトナム・ラオス・カンボジアで「アジア子どもの家」を運営し、子どもたちの教育を支援しているNPOです。

ハンソンさんは2004年から10年間理事長を務め、2014年に後任へ交代して顧問になりました。

講演会の講師派遣サイトには、今もハンソンさんのプロフィールが載っています。

演題の例は「地球に優しい暮らし方」「違いがあってこそ…」「人権って何だろう?」など、暮らしと人権にまつわるものが中心です。

執筆では、共同通信が地方紙に配信する「現論」や、毎日新聞和歌山版の「ハンソンさんの熊野四方山(よもやま)ばなし」の連載を持っていたことが紹介されています。

タレントから、講演と文章で考えを伝える人へ、軸足を移したのが今のハンソンさんです。

テレビで見かけなくなったのは田舎暮らしを始めた頃から

「最近テレビで見ないな」と感じた方も多いと思います。

Wikipediaによると、ハンソンさんは和歌山で田舎暮らしを始める頃から、講演と執筆に重点を移してテレビには出ていなかったそうです。

それまでは関西テレビの『ハイ!土曜日です』でアシスタントを務めるなど、テレビにたくさん出ていました。

テレビ東京の前身・東京12チャンネルでは『うわさの報告書』の司会も担当しています。

ただ、完全に表舞台から消えたわけではありません。

2006年には、NHKの朝ドラ『芋たこなんきん』に「りん」役で出演して話題になりました。

長く画面で見ていなかった人がいきなり朝ドラに出てきたので、驚いた視聴者も多かったようです。

その後も映画にぽつぽつと出演しています。

年 作品
2003年 映画『ぷりてぃ・ウーマン』(茂森ジェーン役)
2006年 NHK朝ドラ『芋たこなんきん』(りん役)
2006年 映画『寝ずの番』
2007年 映画『おばちゃんチップス』
2010年 映画『脇役物語』(ジェーン役)

2007年から2008年にかけては、文化放送『吉田照美ソコダイジナトコ』に電話で出演していました。

和歌山に暮らしながら、電話という形でメディアとのつながりを保っていたわけですね。

テレビに出なくなったのは干されたからではなく、自分で暮らし方と仕事の比重を変えたからだと考えられます。

Yahoo!知恵袋でも、2009年に「関東では全然見かけない」という質問に対して「和歌山で暮らしていて、執筆中心にしているらしい」という回答がついていました。

近況が確認できるのは2016年の桂米團治との対談

では、いちばん最近のハンソンさんの様子はどうでしょうか。

公に確認できる近況で比較的新しいのは、2016年の桂米團治さんとの対談です。

毎日新聞のコラム「米團治の粋な噺で行きましょう」の2016年3月の対談相手が、ハンソンさんでした。

米團治さんの父・桂米朝さんとは長く一緒に仕事をしてきた間柄で、対談ではその頃の思い出話も出たそうです。

米團治さんはブログで、この年に喜寿(77歳)を迎えたとは思えない若々しさだと書いていました。

同じ2016年の2月には、大阪・松竹座で上演された米朝追善の芝居『地獄八景亡者戯』に、日替わりゲストとして登場しています。

舞台で米團治さんに「ご自分の意識としてはアメリカ人ですか、日本人ですか」と聞かれ、「そうやなぁ、美人かなぁ」と即答。

客席は大拍手だったそうです。

……最高じゃないですか、これ。

大阪弁のキレ味は、70代後半になっても健在だったということですね。

一方で、それ以降の本人の近況を伝える報道は、調べた範囲では見当たりませんでした。

2016年の時点では元気に舞台にも立っていましたが、その後の様子は公にはほとんど出ていないというのが実情です。

来日から大阪弁タレントになるまでの経歴

ここで、ハンソンさんがどうやってタレントになったのかも振り返っておきます。

ハンソンさんが日本に来たのは1960年で、アメリカのオクラホマシティ大学に在学中のことでした。

遺伝生物学者だった4番目の兄が大阪大学に招かれたのに合わせて、一緒に来日したのがきっかけです。

兄が任期を終えて帰国したあとも、ハンソンさんは大阪に残りました。

大阪の雑多な雰囲気にすっかり魅了されたそうです。

やがて「関西弁を話すアメリカ人がいる」とテレビで取り上げられ、テレビやラジオに引っ張りだこになりました。

1966年まで大阪で暮らしたので、流暢な大阪弁が身についたんですね。

その後は東京でタレント活動を続け、1987年に和歌山へ移ることになります。

映画『アルプスの若大将』にも出演

来日初期には女優としても活動していて、映画『アルプスの若大将』(1966年)ではフランスの学生リシェンヌ役を演じました。

ほかにも『ガメラ対大悪獣ギロン』(1969年)など、昭和の娯楽映画に数多く出ています。

スポーツ観戦の常連としても有名

大の野球好きで、とくに大阪近鉄バファローズのファンとして知られていました。

オリックスとの合併の際には反対運動にも参加しています。

プロレスも好きで、全日本プロレスの中継ではリングサイドで観戦する姿が毎回のように映っていたそうです。

ジャイアント馬場さんが亡くなったときには、日本武道館での葬儀に参列して献花しています。

イーデス・ハンソンの現在を調べる人向けの関連情報

ここからは、ハンソンさんの現在と一緒によく調べられている話題をまとめました。

年齢や結婚、名前にまつわる噂まで見ていきます。

現在は何歳で、生きてるのか

ハンソンさんは1939年8月28日生まれです。

2026年9月の時点で、87歳になっています。

「生きてるの?」と気になって検索する方も多いようですね。

調べた範囲では、ハンソンさんが亡くなったという報道は見つかりませんでした。

Wikipediaでも存命の人物として扱われています。

ただ、2016年以降は本人の近況が公に出ていないため、今どう過ごしているかまでは分かりません。

訃報は出ておらず、87歳の今も存命と考えられますが、最近の様子は公表されていない状態です。

旦那は文楽の人形遣い・吉田小玉だった

ハンソンさんの旦那さんだったのは、文楽の人形遣い・吉田小玉さんです。

小玉さんは、のちに五代目吉田文吾を襲名しています。

大阪で文楽に通ううちに楽屋にも顔を出すようになり、若手だった小玉さんと交際が始まったそうです。

2人が結婚したのは1963年で、ハンソンさんは家を買い、小玉さんの両親と妹を呼び寄せて5人で暮らし始めました。

当時は「青い目の嫁はん」として話題になり、1964年には藤山寛美さんとハンソンさんの主演で映画『青い目の嫁はん』も作られています。

主題歌のレコードも出ていたほどです。

ところが結婚生活は長く続きませんでした。

日刊ゲンダイによると、離婚が正式に成立したのは1965年9月17日で、結婚から2年3か月後のことでした。

その日の大阪は台風の直撃を受けていて、ハンソンさんはスーツケースひとつで家を出たそうです。

……想像するだけで胸が締め付けられます。

文楽の吉田玉男さんは婦人公論のインタビューで、この結婚について「東は東、西は西ということでしょうかね」と振り返っていました。

再婚した相手はいるのか

離婚後に再婚したのかどうかも、よく検索されています。

調べた範囲では、ハンソンさんが再婚したという報道は見つかりませんでした。

Wikipediaの経歴でも、結婚と離婚は1963年と1965年の一度だけが書かれています。

離婚後は大阪から東京、そして和歌山へと拠点を移しながら、仕事と活動を続けてきました。

公に確認できるのは吉田小玉さんとの一度の結婚だけで、再婚相手の情報は出ていません。

子供はいるのか

子供についても、ハンソンさんに子供がいるという情報は見つかりませんでした。

吉田小玉さんとの結婚生活は2年ほどで、その間に子供が生まれたという記録もありません。

ひとつ注意したいのが、婦人公論に載った文楽の吉田玉男さんのインタビューです。

ハンソンさんの結婚の話が出てくる同じ段落で、玉男さん自身がイギリス人女性と結婚して「子供も2人授かりました」と語っています。

検索結果の抜粋だけを読むと、ハンソンさんの話に見えてしまうかもしれません。

でもこれは玉男さん本人の家族の話で、ハンソンさんの子供のことではありません。

ハンソンさんの子供について公表されている情報はない、というのが現時点で分かることです。

半村良の筆名の由来になったという噂

直木賞作家の半村良さんのペンネームには、ハンソンさんにまつわる有名な噂があります。

「イーデス・ハンソン」をもじって「良いです、半村」、つまり半村良になったというものです。

そこから「半村良はハンソンさんのファンだったから、この筆名にした」という話が広まりました。

え、そうだったの!?って感じですよね。

ところがWikipediaによると、これは偶然の一致だったそうです。

当の2人が雑誌の対談でこの偶然を面白がり、誤解もシャレとして楽しむことにした、というのが真相とされています。

ファンだったから名付けたという話は噂で、実際は偶然の一致を2人が面白がっていた、というのが通説です。

ギャグとして使われる名前のダジャレ

「イーデスハンソン」と「ギャグ」で検索する人がいるのは、名前がダジャレとして使われてきたからです。

「いいです」と「イーデス」の音が同じなので、「いいです、ハンソン」と言葉遊びにされてきました。

Yahoo!知恵袋には、幼稚園の子が「いいです、イーデスハンソン」と言っていて元ネタが分からない、という質問まであります。

本人を知らない世代にまで、名前だけがギャグとして残っているのは面白いですよね。

ちなみに、イーデス・ハンソンは芸名やペンネームと思われがちですが、れっきとした本名です。

英語のつづりは「Edith Hanson」で、父親はデンマーク系の宣教師です。

イーデス・ハンソンの現在のまとめ

  • イーデス・ハンソンは1939年8月28日生まれで、2026年9月時点で87歳
  • 1987年から和歌山県田辺市中辺路町の山里で暮らしている
  • 中辺路は熊野古道が通る土地で、2004年に世界遺産に登録された
  • 移住の理由は、生まれ故郷インド・マスーリのような山の暮らしへの憧れ
  • 集落では沢から汲み上げた山の水を使い、軽のライトバン「稲妻号」を愛用していた
  • 田舎暮らしを始めた頃から、講演と執筆に重点を移してテレビから離れた
  • 2006年にNHK朝ドラ『芋たこなんきん』で久々にテレビドラマに出演した
  • アムネスティ日本支部の支部長を13年務め、その後は特別顧問
  • エファジャパンの理事長を2004年から2014年まで務め、その後は顧問
  • 2010年度から近畿大学総合社会学部の客員教授を務めた
  • 公に確認できる比較的新しい近況は、2016年の桂米團治との対談と松竹座への出演
  • 死去の報道はなく存命と考えられるが、最近の様子は公表されていない
  • 1963年に文楽の人形遣い・吉田小玉(のちの五代目吉田文吾)と結婚し、1965年に離婚
  • 再婚や子供についての情報は出ていない
  • 半村良の筆名がハンソンさんに由来するという話は、偶然の一致とされる

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